文化の制度性から「落ちこぼれる」

大学院生の頃、研究室の助手(今の言い方では助教)から「君は進学校の落ちこぼれの典型だな」と評されたことがある。そのニュアンスは侮蔑的で、お前は自分の劣等感を補償するために学問しているのだろうという批判だったと覚えている。すかさず「あなたのような田舎の秀才に言われたくありません」と言い返せばよかったが、妙に納得してしまい、そのままにしてしまった。実際に「落ちこぼれ」だったから納得したこともあるが、それ以上に「落ちこぼれる」ことに何か内的な必然性を感じていたことの方が大きい。

朝日新聞の『吾輩は猫である』の連載をみながら、夏目漱石について子どもに説明しているときに、ついにこの作家を好きになれなかった自分を思い出した。新入生の時、大学生協の好きな作家ベストワンに夏目漱石が挙げられていて、「ああ皆そうなんだなあ」と思ったことなども。他にも小林秀雄とか丸山眞男とか、外国系だとM.フーコーとか、個々に読むと面白かったり、納得したりするところもあるのだが、それらの背後にすごく嫌な空気のようなものを感じてしまう。若い頃は、それこそ自分が「落ちこぼれ」だからだと思っていた。高校生のとき、小林秀雄の読解の授業で当てられ、「僕はよく分からないし、分からないことを書くこの作家の方が間違っているのではないか」と答えて、国語の教師からひどく叱られたことを思い出す。

子どもに説明しながら、漱石は朝日新聞に勤めてたくさん小説を書き、たくさんお弟子さんがいて、小説家だけでなく、パパの大学の先生にもたくさんいたし、岩波書店という本屋さんを作った人もいるんだよ、と話を進めて、「ああ、そうか」と独りごちた。この流れが嫌だったんだな。そうした流れは考える自由とは何の関係もなく、むしろ妨げですらあるのに、逆に考えることを流れに乗ることに置き換えてしまう。「落ちこぼれる」のは、流れに乗らないためだったのだ。

もっとも、朝日新聞を取っているように、『世界』も『思想』もときどきは買って読むように、私自身は一応左の方だと思っていて(ただし、連れ合いはかなり怪しいという)、左右という意味でこの流れを嫌っているわけではない。省みれば、左右とは別に、私と同じようにこの流れに嫌気がさしている人は結構いるのかもしれない。

こうした文化の制度性というか党派性というか、そうした怪物の嫌らしさの源泉は、制度性や党派性のもつ社会的特徴、すなわち閉鎖的なメンバーシップや内輪賞めと裏腹な内部闘争・階統的支配にだけあるのではないような気がする。より深いところで、これはB.アンダーソンがかつて明らかにしたような非西欧・後発近代化社会のナショナリズムと関わっているような気がする。アンダーソンは「想像の共同体」をまさにコミュニティと表したように、その肯定的な側面を見たかったのだろうが(彼にとっては他人事だからね)、私が感じているのが、その否定的な側面ではないかと思う。

こうして考えてくると、俄然漱石が面白く思えてきた。遠からず時間を見つけて読み直してみよう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 文化の制度性から「落ちこぼれる」

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    同じように、1つの文化を創り、たくさんのお弟子さんを育てたのに、S.フロイトには、漱石のような嫌な感じがまったくしない。なぜだろう。それもまた考えるポイントだと思うが、とりあえずは、漱石は読者のコミュニティ(具体的にも抽象的にも)を求めていたが、フロイトはただ自由に考えることの「しもべ」に留まったというちがいだと思っている。

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