吉見の猿マネ:墓場まで持っていかない話3

講師として採用された山梨大学教育学部(旧)の同僚から、次のように言われたことがあった。「お前が親しいX先生が、お前の研究を『吉見の猿マネ』と言っていたぞ」。その同僚はかなり変人で、機嫌がいいと自宅までついてこんばかりにベタベタするが、機嫌が悪いと「お前の悪口をたくさん書いた手紙を富永健一先生に送った」(受け取った富永先生も困られただろう)などと言う人だったし、X先生は師弟関係でいうと年長のイトコ弟子といった関係で、当時研究会などで毎月のように親しくお会いしていたから、あまり真に受けなかった。しかし「猿マネ」とは正直うれしくなかった。吉見俊哉先生の『都市のドラマトゥルギー』は至高のお手本で、少しでもその水準に近づきたいと願っていた。しかし先生のお仕事に漲り続ける「力」は、私には決して真似られないし、真似たいと思ったこともない(正直にいえば、私はその「力」が嫌いだ)。もし「猿マネ」ならば、前者の意味でも後者の意味でも吉見先生を軽んじていることになるので、うれしくなかったのだ。

ある朝出勤すると、職場の郵便受けに「旅に出て、どこかの町で喫茶店でもやることにするので、探さないでほしい」という同僚からの手紙が入っていた。驚いて学部長に電話すると、学部長宛にも同じ手紙が届いていて、要は失踪したということなのだった。学部長と相談しながら休職の手続きや代講の手配を行う一方、X先生も含めて関係のある先生方に捜索を依頼した。X先生は親切に手伝ってくださった。やはり「猿マネ」発言は同僚の狂言だったのだなと思った。結局1週間ほどで同僚と間接的に連絡が取れ、やりとりの後、半年間の休職ということで片が付いた。半年後同僚は職場復帰したが、ひと言の言い訳も礼もなかった。まだ30歳と若かった当時の私を、今の私は「よく乗り切った」と賞めてやりたい。

その後もX先生との交流は続いたが、どこかで私はわだかまりを持ち続けていた。X先生の言動の端々に、小さなとげがあるように感じられた。だんだんと、私はX先生から離れていった。もしそれが私の誤解なら、申し訳ないことだったと思う。

ところが数年経って、X先生が私たちの業界では珍しい刑事犯罪のために大学を解雇されたというニュースを聞いた。聞いたとたん、私はたくさんの書架に、まるで新刊書店のように整然と専門書が並べられた先生の研究室を思い出した。それは私がこれまで見た中でもっとも整った書架の1つだった。そしてその中央に、優しく、紳士的なX先生のもう1つの顔の像が結んだ。その顔は、私を憎しみの目で見つめていた。私は「猿マネ」の意味が分かったような気がした。それはX先生その人の精神のありようだったのだ。きっと自らの「猿マネ」に耐えられなくて、彼は道を踏み外したのだろう。

さらに少し経って、X先生の後任人事が公募にかけられた。私はちょうど病気が悪化しつつあって、原因である今の職場から一刻も早く逃げ出したかったので応募した。一応面接まで進んだが、採用されなかった。私は再度X先生のことを思い出した。X先生の後任は、X先生とは無関係の、別の分野の人が選ばれたようである。

私の元同僚は、無事定年まで勤めあげて(旧国家公務員だから「恩給」が出るということ)、今は某私大の教員に天下ったそうだ。学会の要職にも選ばれ、著書もたくさんあり、すばらしい学者人生ということなのだろう。幸い甲府を去った後、一度も会ったことはない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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