身体感覚の歴史社会学:研究の出発点として

前便で「松下圭一の身体感覚」と書いたが、おそらく私のように「ない」あるいは「鈍い」のも含めて、どの学者、作家、さらには普通の市民一人ひとりにも身体感覚はあり、かつそれは集合的に形成され、相互的に表現されるのではないか。とすれば知識社会学や歴史社会学はイデオロギーや「言説」ではなく、この身体感覚に照準して探究されるべきなのではないか。

もっともこのアイデアは、いつもながらのパクリで、元ネタは「整体」の創始者野口晴哉の「体癖」である。ただ私は、それは家族の遺伝的発生史のなかで繰り返されるだけでなく、社会的に構築され、歴史上に消長するものとして考えてみたい。たとえば、明治大正の美女は皆面長だが(野口が上下型と名付ける、平塚らいてうのような顔)、昭和の美女は皆丸顔で目がつり目だ(こちらはねじれ型、吉永小百合のような顔)。平成はどうだろう(たぶん蓮舫氏のような顔、アゴとエラが張り、顔ごと前に突きだした前後型)。

私は教わったことがないので(学部時代教育学部に出講されて人気講師だったが、私はいつもの天邪鬼で出なかった)分からないが、もしかすると栗原彬先生は、そうしたアイデアをお持ちだったかもしれない。

このテーマにもっとも適合すると私が思うのは、中野重治の小説『むらぎも』だ。なかでも何度も繰り返される主人公の独白「・・・・なんだけどな」は、単なる思考ではなく身体感覚を伴った思考であって(だから「だけど」になる)、だからこそ、この小説のクライマックスでは、「父なるスターリン」のイメージが燦然とかがやいて想起されるのである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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