女嫌いの精神分析:墓場まで持っていかない話5

朝何気なくNHK総合のニュースを見ていたら、自閉症でピアノの上手な息子を苦労して育てた母親のリポートを放映していた。集中して見ていたわけではないが、だんだん不愉快になってきて、その不愉快さが不思議なくらい大きかった。なぜだろう。近頃流行の言葉でいう「感動ポルノ」(健常者の「感動」のために障がい者の「努力」を消費すること)だからだろうか。ちょっとちがう。女性記者の関心が、息子にピアノを弾かせる、言葉を教えこむ母親の方に集中していて、彼がなぜピアノを弾くのか、本当に彼はピアノを弾きたいのか、全く語られなかったからだ。私は息子の方にに勝手に感情移入して、自分のことのように怒っていたのだと思う。このリポートに同意すれば、息子と私は亡き者となり、母親と女性記者の「ホモ・ソーシャルな関係」だけが強化されてしまう。この関係への嫌悪と抵抗こそ、私の「女嫌い」の原因ではないか。

もっとも私の母は、私の目の前で自分の息子が「灘高、東大、博士様」なことを自分の手柄のように自慢したことはないし、私が上京して以来つねづね「私は子育てに失敗した」と言っていた。しかし、ほら「失敗した」というところで、もう私の存在は亡き者になっている。そしてその「失敗した子育て」こそ、家に閉じ込められた母の(私のではなく)自己実現の道具だったのだ。「失敗した」のは、たぶん私を進学校なぞに入れて家を出るきっかけを与えてしまい、一生道具として使うことができなくなった(さらに他の女に奪われた)からだろう。

だから私は大人になっても結婚して家族を持ちたいとは思わなかったし、幸いにも家族を持て、神様のまことに賢きご配慮によって私以外の家族が全員女性となっても「女嫌い」でなくなることはなかった。若い頃、私は自分が同性愛者なのではないかと疑っていたが、まったくそうではない。それは本当の同性愛者に失礼だ。

先に私は教えるのが非常に嫌いと書いたが、この偏向も起源は同じだろう。教える側が教えられる側を自分の自己実現の道具にしてしまうことに耐えられないのだ。もちろんそうでない教育はあり得るし、仮に母親がそうでも、そうでない父親から学ぶ人も少なくないだろう。しかし残念なことに、社畜だった父はほとんど家におらず(家庭より仕事が楽しいと言っていた)、私には父親のモデルはなかった。だから青春期の私は父親モデル探しに没頭し、結局見つけられなくて、自分で結婚してOJTで学ぶことにしたのだ。しかし、この「教育嫌い」も結局今まで治らなかった。

神様のまことに賢きご配慮を私は活かせるだろうか、娘たちの成長を自分の道具にせず、むしろ彼女たちの自立の過程を通して、「女嫌い」から、「教育嫌い」から、否奴隷根性から自らを解き放つことができるだろうか。

もう1点、「母親嫌い」イコール「女嫌い」にならなくてもいいはずが、なぜそうなるのか。これは最初のテレビリポートの印象から離れるが、たぶん理由は2つあって、1つは直接的なもの、母親が息子の性的成長に管理的に介入するからではないか。E.サイードの自伝『遠い場所の記憶』のクライマックスが、夢精したサイード少年を母親が嘲笑、叱責する挿話だったことが思い出される。私にはその経験はないが、しかし「白のブリーフ」(バブル期の頃マザコンの象徴と言われた)はじめずっと母親好みの服を着せられ続けてきたことは確かだ(今は決して着ないし、着ると嫌な感じがする)。もう1つは間接的なもの、母親自身が自分の女性性について二律背反的な感情を持っているからではないか。私の母は自分の美貌にかなり自信を持っていて(若い頃は父の同僚たちから「フランス人形」と呼ばれていた)、しかしその自信は本物ではなく、初中終他人の容貌の悪口を言っていたし(一番の標的は醜く太った息子の私)、かといって美貌以外に達成的に(社会学の用語、生得的の反対)自信を持てる何かを持とうともしなかった。ちょっと前に吉永小百合の映画を見ていてしみじみ思ったのだが、彼女は日本一の美貌に安住せず、むしろそれを厭い、乗り越えようとして、彼女の演技に過剰な生真面目さをまとわせる。それが見る私たちを美貌へのコロス(拍手隊)とは別の次元で捕らえ、緊張させる。いずれにせよ女性にとって容貌は最大の罠であり、そんな女性性を私は今も嫌っている。

最初の番組に戻って、教育者としての今の私にできることは、あの自閉症の息子に「ピアノなんか弾かなくていいんだよ」と伝えることだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 女嫌いの精神分析:墓場まで持っていかない話5

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    私にとって父親的教育という点で非常に示唆的だったのは、M.メイヤロフの『ケアの本質』(ゆみる出版)である。この本は看護や保育の業界では聖書扱いのようだが、それはちょっと読み違えのような気がする。私には、この本は父性とは何かを語っているように読め、だからこそ上野千鶴子先生が『ケアの社会学』で口を極めて罵ることになったのだと思う。

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