「危険社会」時代の社会科学:舩橋晴俊先生の思い出

社会人大学院のゼミで、古典としてU.ベックの『危険社会』を読んでいる。あらためて読み直してみると、この本の魅力は、家族や労働や教育といった社会学の「定食的」メニューにあるのではなく、「危険社会」時代に対応する知識社会学や科学社会学、それと連動する政治の将来を描き出したところにあることに気づかされる。いや業界の常識かもしれないが、私は今まで気づかなかった。そこでふと、一昨年に亡くなられた同僚の舩橋晴俊先生のことを思い出した。舩橋先生こそ、そうした方向に進まれた、わが国における第一人者だったのだな、そうした彼の現在の大きさと未来への射程の長さを私は正しく認識していなかったな、と。

ベックのアイデアのベースはたぶんウェーバーの「客観性」論文で(そうした議論もわが業界では常識なのだろうか、私は知らない)、それは折原サークルの初期の一人である舩橋先生には当然のことと思われただろう。重要だが小さなちがいは、ベックの議論は統一ドイツにおけるSPDと緑の党の連立政権、その次の物理学者出身のメルケルCDU政権といった政治の方向性を探っているのに対して、舩橋先生の議論はつねに政策や行政(と、相対的には小さいが市民運動)に向かっていたことだ。舩橋先生が、鳩山と菅という理工系出身の2人の総理を出した民主党政権について論じているのを、残念ながら私は聞いたことがない。

正直に言って、私は舩橋先生が嫌いだった。いくつか思い出を書くと、ある採用人事の会議(舩橋、水野節夫、私)で、ふと私がウェーバーについて話したら、舩橋先生は怖い顔になって、「君、僕ら専門家の前でそんなことを言うもんじゃないよ」と言われた。私は半分納得しながら、そこに理論家の先生の領域社会学者の私に対する差別意識を感じて愉快でなかった。「あなただってウェーバー学者じゃなくて環境社会学者でしょう」と言いたかったが、いつもの通り言葉を飲み込んでしまった。それに私もほんのちょっとだけれど、折原サークルの端くれなのだ(門下と言いたいが、折原先生ご自身が私のことを友人と書いてくださるので、そうも言いづらい)。

わが学部で社会学会大会が開かれたとき、私は似田貝先生のいう「学会官僚」(院生時代に学会事務局を務めた東大出の学者への先生一流の揶揄)、の端くれだったので、なるべく表に出ないようにしていたが、結局色々と手伝うことになってしまった。無事大会が終わると、田中義久先生とツートップだった舩橋先生は、働いた同僚たちを集めてこう言われた。「今から反省会をやりましょう」。「それを言うなら慰労会でしょう」。私はがっかりしてさっさと帰ってしまった(慰労会にこだわりすぎ!)。

カリキュラム担当の管理職に就いた私の最大の仕事は、舩橋先生が学部長の時に作られた精緻で煩雑きわまりないカリキュラムを簡素化することだった。毎日頭を悩ませているとき、帰りのバスで舩橋先生と乗り合わせた(舩橋先生と帰りのバスで初中終会うのが、私の苦痛の1つだった)。私はお世辞半分で「先生のカリキュラムに手を加えるのは、ほんとうにたいへんです」。すると先生ニッコリ笑って、「それはそうでしょう。しっかり作ってありますからね」。今、わが学部はよってたかって先生のカリキュラムを廃止しようとしている。私はちょっと悲しい。

舩橋先生の大きさを踏まえた上で、しかし私はやはりそれに異を唱えたいと思う。私は科学技術にしろ社会科学にしろ、言説自体が官僚制的に組織化されているので、その言葉に囚われているうちは決して自由に思考することはできないと思う。だから、私たちに必要な社会科学は、政策を構築し、制御する規範理論なのではなく、生活を政策から離陸させ、対峙させ得るような批判理論なのだ、と。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。

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