「別表二」に苦められる:墓場まで持っていかない話6

職場のカリキュラム改革の議論の中で、旧教養系科目の扱いが問題になった。その時「別表二」という嫌な言葉を思い出した。旧教養系の教員を暗に卑下する言葉だ。社会や学生には知られていないし、教員採用時にも明らかにされないことが多いが、大学の規則上は今も厳然と存在していて、教授会に見えない壁を造り出している。

前任校に赴任してすぐ、大学改革の嵐が襲ってきた。表向きは教養課程の廃止を決めた「大綱化」後の教養教育の再編をうたっていたが、裏では工学部から借りていた「別表二」の教員枠を工学部に返し、工学部はそれを使って学科を増設し、教育学部の方は残った教員で新しいコンセプトの学部を創り出すというものだった。もっとも大学拡張期にデッチ上げた、いわゆる「ゼロ免」(教育学部なのに教職免許を取らなくてもいい課程)にはまだ手を入れなかったので、かえって教育学部色が薄まるという皮肉な改革になった。ある日会議に出ると、いきなり誰を追い出すかという話になった。新任で一番若い私を追い出したい雰囲気は明らかだった。昼休みが終わって講義のために中途退席しようとすると、同僚の一人が「俺たちは授業で喰っているんじゃない。会議で喰っているんだ」と恫喝した。「出ていく」と言うまで絞り上げる魂胆だった。私はその瞬間に自分の職場に絶望した。

帰宅後、前任者の塩入力先生に電話で泣きつくと「社会学の教員枠は『別表二』じゃないから心配することはない。自分から出ていくと言わなければ大丈夫」と太鼓判。一方師匠の似田貝香門先生に相談すると、「異動する代価として社会学のポストを1つもぎ取れ」と指示され、就職したばかりの私は途方に暮れてしまった。先便に記した、例の奇人の同僚は「俺は残りたいから、もし出ていかなければならなくなったら、お前だけ出ていけ」と言う始末。そうこうするうちに教養科目再編を決める会議のメンバーに任命された、出てみると学部長や評議員も出る、事実上の大学再編会議だった。おそらくその場で、工学部の鈴木嘉彦先生は私に目をつけられたのだろう。直接研究室に電話をかけてこられ、「文理融合の学科を新設するので、そこで橋爪大三郎さんのようなことを教育してほしい」と言われた。私はその率直さと、ビジョンの純粋さに打たれ、異動を決意した。いや正直に言うと、「異動の代価に社会学のポストを1つもぎ取れ」をやって、師匠の覚えをめでたくしようと「も」思ったのだ。そこで「社会学を教育するには理論と実証の2人が最低限必要だが、私は理論をやりたいので、実証の新任を1人確保してください」と虚偽の条件をつけた。たぶん鈴木先生は騙されてくださったのだろう。新設の「循環システム工学科」には社会学のポストが2つ用意され、新任で「実証」の社会学者を採用することになったのである。その採用の経緯をめぐる「墓場まで持っていかない話」はまたの機会にしよう。

結局、「別表二」ポストの返却に伴って教育学部から工学部に異動した文系の教員は私1人だった。後は(本来の「別表二」教員も含め)皆逃げてしまったが、工学部の方はその分新任で取れるので、文句を言わなかった。異動した私は工学部では珍獣扱いで、エレベーターで乗り合わせた、ブラウン管が専門の老教授に「文系の君たちはどうして単著論文で許されるのかね」と聞かれて、困ったことがあるほどだ。ただ博士号を取っておいてよかった。おかげで半人前扱いされなくて済んだ。

もともと旧制高校を解体して教養課程を作り、さらに高度経済成長期に大学の大衆化につれて肥大した教員枠が「別表二」だったのだろう。そうした「封建遺制」を精算できないのが日本の官僚制のアホらしさで、いまでにゾンビ的に生き延びている。生き延びているだけではなく、何かあればすぐに教授会の争いのタネとなり、立場の弱い教員を追い出す道具となる。このゾンビに死の釘を打ち込まない限り、私は大学という職場を信用しない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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