福武・日高の「正義の帝国」:戦後日本社会学の成立と終焉

今の王様のショボさはさておき、前便で触れた福武・日高の「正義の帝国」についてもう少し考えてみたい。

前便を書いていて思い出したのは、前任校に集中講義の講師として訪れてくださった金子勇先生の話だ。例の奇人の同僚は自分の人脈を自慢するために、毎夏知り合いを集中講師に招いていたが(地方の国立大学がそうしたことができたのも今は昔だ)、2年目に来てくださったのが金子先生だった。招いたくせに奇人は東京に帰ってしまい、夜の接待は私の仕事になった。でも、それで私は金子先生の知遇を得ることができたので、これだけは感謝しなければならない。さて、金子先生は酔ってくると相手の膝を叩くくせがあって(昔の酔っ払いには膝とか肩とか、多かった)、バシバシ私の膝を叩きながら、「僕が九大で習った内藤莞爾先生は、つねづね『戸田貞三先生は偉い。鈴木(栄太郎)先生や阿閉(吉男)さんや俺のようなデキる者を全国に配置して睨みを効かせ、福武や日高などデキない奴を手元に置いておいたんだ』と言われていたよ」と笑うのだ。東大出で今は地方にいる私は、ほめられているのか馬鹿にされているのか、我が身に照らして苦笑するしかなかった。金子先生はほめてくださっていたのだ。その後も親しくご指導くださり、『社会学評論』に「分野別研究動向(都市)」(ウェブでpdfで読めます)を書く機会を与えてくださった。

この話の真意は、今省みれば、学徒出陣して苦労した内藤先生たち(あるいは引き揚げて苦労した鈴木栄太郎)に比べて、戦争中は東京で軍部の御用を務め、いい思いをしていた福武・日高が、戦後も社会学界を牛耳ってきたことに対する怒りだったのではないか。しかし不器用な内藤先生は(私が何度か見た印象では)、学界を牛耳るなんてことはできなかった。九大すら牛耳れなかったのだから。そして、気がつくと周りは戦後派の富永健一や鈴木広が牛耳っていた。

「正義の帝国」はひどすぎる。せめて「共和国」というべきではないか、という批判もあろう。しかし私は「正義の」「帝国」と言いたい。「正義の」と呼ぶべき一方的な正しさを彼らは背負っていたし、「共和国」というほどの民主制も分権制も(折原先生には悪いが)備えていなかったから。敗戦後から高度経済成長期にかけて大学が焼け太るのに連れて「別表二」でない社会学のポストが増えたとき、それを差配したのは福武であり、その道具が有名な「エンマ帳」(福武のメモ帳)だったのだろう。日高の方の、いわゆる岩波文化人への影響力は、残念ながら「方向が違う」のでよく分からない。でも、たぶんあるのだ。だって、私には一度も岩波関係の仕事の声はかからないもの。

この帝国の正嫡をもって任じていたのが北川隆吉先生だった。ある時北川先生は私に真面目な顔をして、「本当は福武さんの退官後、吉田(民人)のかわりに俺が東大に戻るはずだったんだ。日高さんはそう言っていた。しかし福武さんが日和見した(党派性を嫌った)」と言われた。私はまさか「うそ~」とも言えないので、黙っていた。学問的、党派的にはさておき、組織としての「正義の帝国」のなかで北川先生はいきいきとはね回っていた。たぶん先生の死とともに「帝国」は地上から消滅したのだ。だから、北川先生が音頭をとられた東大出版会の『講座社会学』は「帝国」の墓標であり、福武・日高を論じた私の論文「社会運動の戦後的位相」は、図らずもその銘文となったのである。

もう1点、「帝国」に対抗し得る唯一の勢力としての、新明正道「辺境伯」の存在も忘れられない。皇帝福武の憧れの的であった新明は(新明「総合社会学」から福武「中枢科学」へ)、上手に福武・日高との距離をとり続けたように思う。日高の翻訳『自由からの逃走』に対応するのは鈴木広の翻訳『社会学的想像力』、福武の『地域開発の構想と現実』に対応するのは伝説の「釜石調査」。新明のところに塚本哲人が出された代わりに、福武の下には高橋勇悦が送られるという人質交換。今も旧帝大で社会学者養成機関として元気なのは東北大と阪大くらいだが、どちらも本家以上に東大臭い学者で占められている(阪大は喜多野清一にはじまり、直井、厚東、山口で頂点を極めたが、もう自家生産に移行したようだ)。

そういえば、昔『人脈社会学』という本があった。学生時代は馬鹿にして読みもしなかったが、これではあまり変わらない。たぶん著者には、同時代的な痛覚があったのだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 福武・日高の「正義の帝国」:戦後日本社会学の成立と終焉

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    個人的には、1年目に講師に来てくださった白倉幸男先生のことも忘れられない。『社会調査の基礎』という名著の共著者である先生とは初対面だったが、とても温厚な方で、私が夜東京に帰ることを気遣って、接待を昼にしてくださった。その後病を得られ、退職されたと聞く。静かに過ごされているのだろうか。できればもう一度お目にかかりたい。

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