名刺もろうといてもらわんと:墓場まで持っていかない話7

変人の元同僚に関わって、色々思い出してきた。この男は同僚となって半年くらいたった頃からベタベタとガミガミを往復するようになったが、ガミガミの1つに、「お前の同世代のAやBは真面目で業績も挙げているのに、お前の不真面目さではとても助教授に上げてやることはできない」というのがあった。たぶん私を採用するときに、私の師匠から2年くらいで助教授に上げてやってくれと頼まれ、それがプレッシャーだったのだろう。こちらは北川隆吉や大澤真幸が4年も居座っていた東大助手を10ヶ月でクリアしたのだから(笑)、助教授になるのは何年先でもよかったし、だいたいAとかBとか、知らない分野の知らない名前を挙げられても困るばかりだった。ちなみにAとBはだいたい似たような仕事をしていて、今はともに学会の権威者だ。王様ではないが諸侯ではあるだろう。

それからだいぶ経って今の職場に移った後、日本社会学会の研究活動委員会幹事という仕事に携わった。これは先述した「学会官僚」の回り持ちの仕事で(もちろん無関係な人が就くこともある)、学会大会運営の影のプランナーといった役回りなので、知っている人は「東大出の傲慢さが遺憾なく発揮される仕事」と見ているだろう。ある大会の時本部に詰めていると、突然Aがやってきた。そして、「名刺もろうといてもらわんと」と言いながら、名刺を差し出した。ちょっと不思議な気がしたが、Aの個性なのだろうと思い、それに知らない人と知り合いになるのは好きなので、よろこんで名刺を頂戴した。そして大会終了後、論文の抜き刷りと「今後ともご指導とご厚誼を」といった手紙を郵送した。しかし、返事はなかった。それ以降今に至るまで何の関わりもない。

一体あれは何だったんだろう。今省みれば「もろうといてもらわんと」という関西弁からして、おかしい。「さしあげたいんですけど」か「受け取ってもらえますやろうか」だろう。たぶん生粋の関西人ではないのだろう。Aは変人の元同僚から私の噂を聞いていたのだろうか。その上で、一応その時点では小さな権力の座にいた私に阿ったのだろうか。いや、「あいつむかつくから、一発かましといたろうか」といった感じだったのかもしれない。いずれにせよAの著書や論文を読む度に、あの薄汚い記憶が蘇ってくる。

しかし変人の言うことにも一理あったので、たしかにAやBはその後も精力的に業績を挙げ続け、旧帝大教授、学界の権威者に上り詰めたが、私の方は全く鳴かず飛ばずで、ずっと六大学教授の座を汚している。そもそも競争と権力を旨とする業界にフラットな交流を求めるのは、たちの悪い虚偽意識だ。それは分かっているつもりだが、それでもやはりあの記憶の薄汚さを、私は払拭することができない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 名刺もろうといてもらわんと:墓場まで持っていかない話7

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    ある有名な年長の先生に初対面の挨拶をしたら、「お噂はかねがね」と言われてがっかりしたことがある。言葉とは残酷なもので、噂と言われて好評ととるほど私もお人好しではないし、たぶん先方もお世辞でいったのではなかっただろう。「一度お話ししたいと思っていました」と言われていれば、たとえお世辞でも全然印象は違ったろう。私が弱いからなのかもしれないが、世間の冷たさをしみじみ感じる。そう書いていて思い出したが、いつかどれかの大会で、故鈴木廣先生に挨拶したら、「優秀な方と聞いています」と言われて、やはりがっかりしたことがある。そう言われては、こちらは二の句を接げない。結局、鈴木先生とはそれっきりになってしまった。

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