「栄光の東大助手」の歴史社会学

前便で北川先生と大澤氏が5年も助手の座を温めていたと書いたが、ふと疑わしくなって正史である『社会学研究室の100年』を見てみると、お二人とも4年で、特に長いというわけではなかった。前便を訂正したい。一覧表をたどると、最長は宮島喬先生の7年で、5、6年の方もちらほらいた。たぶん私が助手になったとき、誰からともなく「助手は2年でやめられるよう、しっかり就職活動をせよ」と言われたことと(実際、当時の助手はだいたい2,3年で栄転されていた)、北川先生が「俺は後輩の世話ばかりしていて、自分の就活をする暇がなかった」と言われたことがごっちゃになっていたかもしれない。

先便で学生時代に「助手になれば教授にもなれるだろう」と考えていたと書いたが、これも正史で確かめると、そうしたキャリアの方は、第二次大戦後は富永健一、綿貫譲治、直井優、稲上毅しかいない。綿貫先生と直井先生は早くに転出され、稲上先生は遅くに戻られたから、結局モデルケースは富永先生1人ということになる。逆にいうと、もし社会学で東大教授になりたければ、東大助手にはならないのが合理的選択だったのだ。

むしろ助手のモデルは、東大教授になれなかった北川先生だったかもしれない。私の師匠の似田貝先生は、冗談半分で「助手経験者はみんな権威主義者だ。宮島さんも稲上さんも、君もだ。そしてみんな北川さんに弱い」と言われた(誰が私を選んだのですか・・・笑)。彼らは「正義の帝国」の忠実な諸侯として、封土を繁栄させ、その版図を安寧たらしめてきたのだ。

この一覧表でちょっと気になることが2点ある。1点目は44年に副手となり、46年から48年まで助手を務めた横山定雄という人、たしか旧国立精神衛生研究所の社会学部門(たぶん現在の組織にはない)の創設者だったと思うが、しかし社会学会ではほとんど忘れられている。その封土はどうなったのだろうか。もう1点は戦前には渡辺萬壽太郎という万年助手がいて、「分家慣行調査」など戸田貞三の農村調査を仕切っていたという話を聞いたことがあるが、一覧表に渡辺の名がないこと。渡辺は、重要文化財になっている新潟県関川町の旧渡辺家住宅の当時の主で、大金持ちだったろうから、ボランティアだったのだろうか。慶應義塾の川合隆男先生がいらっしゃればすぐに教えてもらえるのだが、川合先生は郷里に隠棲されてしまったので、かなわない。

「君の名前は東大のどこにも残らないぞ」と10ヶ月で助手をやめるとき、庄司先生に嫌みを言われたが、幸い一覧表には私の名前も記載されている。1年だけの助手は、偶々だが戦後では折原先生と私だけだ。でも、問題は年数ではなくて、その後誰にも真似のできないような仕事をしたかどうかだろう。その点では私の名前は今のところ「どこにも残らない」。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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