女子大で学生に泣かれる:墓場まで持っていかない話8

社会調査法を教えはじめたのは、法政大学でも前任校でもなく、帝京大学だった。まだ博士後期課程の2年生だったが、SPSSのコンピュータセンター版を使える人が少なかったせいだろう。実習の講師として特別に雇ってもらえ、3年間聖蹟桜ヶ丘に通った。その後連れ合いも専修大学で同じような講師として雇ってもらえた。パソコン版がビジネスベースで普及した今となっては、スマホと黒電話のちがい、昔話だ。

本格的な講義を担当したのは、これも非常勤で東京女子大である。鎌田とし子先生に招いていただいて、地域社会論とセットで教えることになった。鎌田先生は厳しく怖い先生として知られているが、私と連れ合いには本当に親身になって心配してくださった。ある時本郷から御茶ノ水に向かう都バスの中で、「中筋さんが悪いわけではないけど、今のままではいけないと思う」と諭してくださったときは、涙が出そうだった。当時住んでいた豊橋から月曜始発の「ひかり」で出て、東京女子大に始業15分遅れの9時15分に着いて2コマ講義をし、その後「かいじ」で甲府に向かって4限の授業をするといった、無茶な生活を送っていた。

東京女子大に赴任してすぐ、やっかいな頼まれごとをされた。専任として就職していた先輩が指導学生と不適切な関係になり、辞職したとのことで、彼の演習のピンチヒッターを頼まれたのだ。もちろん先輩から連絡はなく、真偽のほどは分からなかったが、とにかく引き受けることにした。本音をいうと、うまく後始末をすれば、先方に恩に着てもらって、連れ合いを売り込めるのではないかと企んでいた。うまく行けばまた東京で二人で暮らせる。実際その後何度かアタックしたが、それはそれこれはこれで、結局うまくいかず、鎌田先生も退職されたので、頃合いを見計らって退職させていただいた。

さて、演習をはじめてみると、学生たちは何も知らされておらず、私は「あの先生はご実家で不幸があって、家業を継がなければならないので郷里に戻られた」などと、見え透いた嘘を言って誤魔化した。多くの学生は大人で、事情を察して何も言わずに私の授業に付き合ってくれた。私たちはR.ベラーの『心の習慣』を読んだ。冒頭の4人のアメリカ人の理念型を似顔絵イラスト入りのレジュメで報告してくれたことが思い出に残っている。

しかし、うまく行かない学生もいた。1人の学生は、経緯を思い出せないが、私の指導が気に入らないと言って、私を呼び出した挙げ句、大勢の女子大生が往来する大学の本館の入口で、大声で泣き出した。これにはまいった。今度はこちらがアカハラでクビになってしまう。しかし泣き止むと、何かが通ったのだろう、その後は私の話も聞いてくれ、よい卒論を書いて卒業した。もう1人の学生はあまり学校に来ず、一応書いただけの卒論を書いて卒業したが、卒業後の謝恩会で、「私の実家は沖縄の有名な酒造家で、うちの泡盛は高級だから、先生なんか買えないよ」と言った。たしかにその泡盛の銘柄を私は知らなかったが(高級といえば「瑞泉」くらいしか知らないし、今もその銘柄を思い出せない)、それよりも、よほど貧乏だと思われたのだろう。いずれにせよ、やはり女嫌いの私には女子大は無理だったかなと思う。

辞職した先輩は最近マスコミシーンに復帰して、その個性的な社会学を再開している。が、たぶんこれからも連絡を取り合うことはないだろう。その先輩はいいのだが、どうして私の人生には、失踪とか不倫とか、他人の後始末が多いのだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 女子大で学生に泣かれる:墓場まで持っていかない話8

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    実は、私はこの沖縄出身の学生に感謝している。学生時代、琉球語の第一人者、故中本正智先生の授業に魅せられたこと、初恋の女性が沖縄出身だったことから、私は沖縄にリアルでない憧れを抱いていた。彼女に冷や水を掛けられたので、その後の私は、沖縄を少しリアルに考えることができるようになったと思う。たとえば、国の食育政策に関与していたときに、沖縄の食生活が健康的でないという話を聞いても驚かなかったし、そのことに日本国民の一人として政治的な責任があると思った。

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