曇り空が晴れ渡っていくように:私の「新しい学問」をはじめる

講義の準備で、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読み直す。あれあれ、こんなに面白かったかなと思う。学生時代に読んだときも面白かったが、今の方が断然面白い。なぜだろう。二十年勉強して知恵がついたからか。確かにそれもあるが、それ以上に、学生時代以来頭の上にのし掛かっていた色々な重しが、病気からの回復の過程で取れていったことが大きいように思う。マクルーハンに限らず、あらゆる本を素直に読めなかったのは、先輩たちや彼らが口にする論壇の流行に惑わされていたからだ。それは二重に愚かなことで、一重目は単に自信がなかった愚かさ、二重目はそうした力に阿っていれば自分も力の仲間入りができ、偉そうにふるまえると思っていた愚かさだ。当然、『現代思想』にも『思想』にも一度も書く機会は与えられなかった(『社会学評論』もヤバかったが、金子勇先生のおかげで1本書かせてもらえた)。今はそれでよかったと思う。酸っぱいブドウっぽいけれども、やはりそういう柄じゃない。

先日社会学者でない隣室の同僚から、『社会学講義』という新書が出たけど読んだ?と聞かれ、読んでないと答えると、読んだら感想を教えてねと言われ、その場では、はいはいと答えたが、後で「決して読まないでしょう」とメールで書き送った。心優しい同僚は私の心情を理解してくれた。これまで一応真面目に付き合ってきたけれど、『社会学講義』のような社会学から真の意味で得たものは何もない。もうたくさんだ。これからは読みたいものだけを読み、考えたいことだけを考えていきたい。

もっとも『社会学講義』の個々の著者に何か恨みがあるわけではない。私の病気の原因でもない。1人の著者は最近私のメールにすぐていねいな返事をくださった。でも、全体として、この塊にノーと言いたい。この塊を核とする偏った知識の広がりから離陸したい。ラザースフェルドもゲルナーもベネディクトも、そこにはいないから。

ふと、書架の奥にある修士論文を開いてみた。前半はずっとネオマルクス主義でない古い集合行動論と、フーコーでない古い社会史と格闘している。ああ、この頃すでにそこから離陸したかったのだな。でも、自信なかったんだな、と若い自分を哀れに思った。

この塊も老いて、そう長くはないだろう。「学びにいく」とか言いながら、きっと影で舌を出しているに違いない、もっとつまらない若手のネタになっているようでは。

病気をして色々な人に迷惑をかけたが、おかげさまで、曇り空が晴れ渡っていくように、私は私の社会学を取り戻すことができた。一歩一歩自分だけの道を進んでいこうと思う。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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