コミュニティから市民社会へ:地域社会学から出発する2

今進行中のわが学部のカリキュラム改革で、故舩橋晴俊先生が手塩にかけて造られた06年カリキュラムは3クール12年で解体されることとなる。私の科目が配置されていた、社会政策科学科と社会学科にまたがる「コミュニティデザインコース(科目群のこと)」も廃止され、新たに各学科専属のコースが設置される予定である。私が定員として配置されている社会政策科学科には、今のところ「グローバル市民社会コース」が設置される方向である。ちょっと流行遅れの名前だが、命名者の私としてはM.カルドーを踏まえて、割とハードなイメージの教育内容を構想している。もちろん教員は現員のままなので、やれることには限界があるが、少しでもナショナルな手枷足枷を取り払っていきたい。

私は少しうれしい。やっと苦手なコミュニティという言葉から解放されるからだ。旧コースでは入門科目を担当してきたので、毎年「コミュニティとは何か」とか「コミュニティはなぜ必要か」とか「コミュニティをどう構築するか」と言った話をしなければならなかった。一応それなりの講義案を用意してきたが、やはり偽りの仮面は隠せない。あるとき学生から「先生は本当はネオリベでしょう」といわれ、そんなにすぐに分かるかなと苦笑した。集団主義的暴力をちらつかせる日本型ネオリベではないものの、A.マッキンタイアも嫌いじゃないけどR.ノージックの方が好きだったりするので、リバタリアンには変わりないだろう。そんな私には、たとえそれが欲望の体系であったとしても、市民社会の方がしっくりくる。道徳の体系より欲望の体系の方が絶対いい。なぜなら、B.マンドヴィルのいうように欲望の累積が乗数的に公益を増加させるからではなくて、欲望はつねに氾濫=叛乱的で、つねに化石化していく社会を破壊し、イノベーションを促すからだ。そこまででなくても、欲望は多数派の常識に挑戦し続ける。もし欲望が体系化され、破壊的でなくなるのなら、それは道徳に取り込まれるからだ。道徳は過去の亡霊であり、多数派の既得権だ。

現代詩があいかわらず刺激的なのは、正しさなんかにこだわらず、逸脱するという原則を見失わなかったからで、現代音楽が最初から退屈なのは、十二音とかトーンクラスターとか、より正しい、新しい制度を創ろうなどと夢見続けたからだ。

抽象化された市民社会一般ではなく、限られた具体的時空間すなわち地域、あるいはローカリティのなかでそのダイナミズムを内側から観察し、外側から考えること。地域社会学から出発した私の、これからの第一の課題である。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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