「正義の帝国」の虜囚:吉田民人先生の思い出

市野川容孝さんの『社会学』(岩波書店)の冒頭に、彼の師匠である吉田民人先生への熱烈なオマージュが記されている。市野川さんは吉田先生の学問領域を超えていく大きさを称賛していて、それはその通りで私も文句はないのだが、なぜそうだったかについては、ちょっと異論がある。それは再三述べている福武・日高の「正義の帝国」に関わっていると思うのだ。

私は吉田先生が嫌いだった(舩橋先生といい、好き嫌い多過ぎ!)。学部3年生の「社会学原論」(東大だけのヘンな講義)で、私は彼の話のどこが面白いのかさっぱり分からず、居眠りしていた。授業中学生に手を挙げさせるのが好きな吉田先生は、寝ていて手を挙げなかった私をにらんで、「僕の話が分からなかったのかな」と言われた。「つまらなくて寝ていました」とも言いにくい。また卒業式の謝恩会で、私が「僕は人の役に立つとうれしいので、そういう人生を歩みたい」と言ったら、吉田先生は怖い顔で「そういう考え方は身を滅ぼす」と言われた。さらに修士論文の審査で、データの解釈をめぐって私が副査の見田宗介先生とながながと言い争っていたら、吉田先生はうれしそうに「僕ならこう考えるがね」と介入された。もちろん私も見田先生も納得するわけがないのである。省みると、いい思い出がほとんどない。数少ないうちの1つは、吉田先生の追悼文集に書いてしまった。もう1つは吉田先生の受勲記念パーティで(右に上野千鶴子、左に江原由美子、前に舩橋惠子といった、ものすごいパーティ!)、先の「身を滅ぼす」の思い出話をしたら、吉田先生は遠くを見るような顔をされて、「今の僕なら(たぶん今の君になら、という意味も含まれていたのだろう・・・)、別のアドバイスをするだろう」とつぶやかれた。それを聞いた江原先生が急に動揺された。たぶん私は無意識に吉田先生の勘どころに触れたのだろう。

吉田先生はずっと神経をすり減らされていたのだ。それは同僚の高橋徹先生や富永健一先生(福武・日高の縮小再生産)との人間関係にではなく、「正義の帝国」の王宮の最奥で、その正嫡でもないのに皇帝福武の玉座に陞って、「正義の王国」の再生産を担わされていたことに。吉田先生は東大に社会学部を作るという、全くどうでもいいような「正義の帝国」の祭祀の継承に邁進された。反対する私たち学生自治会に(その理由はやや込み入っていた)、先生は「君たちは社会学士になりたくないのか」と目を剝かれた。でもきっと先生もなりたくなかったのだ。社会学部に挫折すると、今度は学術会議で活躍され、受勲もされた。パーティで「本当はほしくないのだけれど、あなたがもらわないと次の人ももらえない、と説得された」と言われていた。私は「なら、もらわなきゃいいのに」と思って聞いていた。社会の奴隷を続けた吉田先生の、厳しい言い方をすれば「寂しい子どもの独り遊び」が、あの空想的な学問体系だったのではなかったか。ああしているときだけ、先生は世界の主人になれたのではなかったか。

「正義の帝国」が崩壊した以上、吉田先生のような社会学者は二度と現れないだろうし、現れる必然性もないだろう。そういえば今の「王様」は、つねづね吉田先生に「先生、そんなこと本気で考えているんですか」と言っていた。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 私の心情と論理 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください