私の知らない故郷:本山謙二「下町の『辺境』」を読む

たまたま他の論文を当たっているときに、『現代思想』2007年6月号に本山謙二「下町の『辺境』三ノ輪”界隈”の文化」というエッセイに出合った。そのなかに、脱線トリオの八波むとしが神戸市吉田新田町で生まれたらしく、その吉田新田町は八波が生まれた大正末期には奄美からの移住者が集まり、ゴム工場で働く町だったと書いてあって、驚いた。吉田(新田)町は私の生まれた神戸市兵庫区金平町の隣町である。もちろん私の生まれたのは、その40年後なので時代が違うが、そんなことがあったとはまったく知らなかった。

吉田町には平家物語の那須与一伝説の舞台「遠矢浜」があり、そこには神戸燈台と、港に船が入るとき停船命令の旗が揚がる検疫所がある。また神戸の下町で篤い信仰を受ける長田神社の浜渡御所もあった(私の子どもの頃すでに使われていなかった)。戦前には潮湯の保養所があり、海水浴場としても使われていたと祖母は言っていたが、私の子どもの頃には近くの台湾精糖の廃液がひどくて、浜は死んで腐ったサルボウガイで埋め尽くされていた。

吉田町の北隣には明治以降鐘紡の兵庫工場があって、祖母は小学校で勉強ができたので、武藤山治社長から賞状をもらったと自慢していた。吉田町には屏で囲まれた中堅社員用の社宅があって、私はその中通りをぬけて幼稚園に通った。大学の友人の結婚式の時、新婦のお母さんが「もしかして、兵庫の中筋商店のご親戚ですか」と聞かれるので、「それは私の実家です」と答えた。聞けば、お母さんは子どもの頃中国から引き揚げてきて、一時期鐘紡の社宅に住んでいたそうで、「おかみさん、怖かったわあ。野菜をためつすがめつしていると、『うちは、ええもんしかおいとらへんで。気にいらんのやったら、早ういんで』と追い払われた」と懐かしまれた。それは近所の大姉御だった私の曾祖母のことである。

こうして思い出しても、奄美に関わることは出てこない。ただ一軒ゴム工場があって、そこの切れ端置き場で遊んで真っ黒になってしまい、母にひどく叱られたことだけである。自分の故郷の知らない面を知らされると、とても不思議な感じがする。確かめたいと思っても、祖母も父ももういない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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