ラッキードラゴン再訪:もうひとつの「旅する社会学」に向けて

土曜日の午前に、四半世紀ぶりに夢の島の「第五福竜丸展示館」を訪れた。最初に訪れたときと同じく、いる間ずっと深い感動に浸っていた。とくに久保山愛吉さんの追悼碑に刻まれた彼の言葉、「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」を読むとき、その願いが狭い意味では何とか守られてきたこと、しかし広い意味かつ潜在的にはその願いは決して実現されてこなかったことを思い起こし、私は動揺した。

再訪したいと思ったのは、東日本大震災のあとNHKで放映された大石又七さんと大江健三郎氏(私の父も含め、ほぼ同い年の少国民世代)の対談番組を見たからだった。原発事故を第五福竜丸の線で考える大江氏の着想に驚かされ、また大石さんがすでにその線で考えられていたことに感銘を受けた。久保山さんの言葉は、残念なことではあるが過去のものではなかったのである。その後第五福竜丸以外の水爆被災漁船の「広がり」に関するテレビドキュメンタリー(南海放送の『X年後』)を見て、ますます再訪したいと思うようになった。が、病気の間は足を向けることができなかった。

再訪したかったもう1つの理由は、ベン=シャーンの「ラッキー・ドラゴン・シリーズ」を展覧会で見たことである。これは一緒に見た連れ合いが、有末賢・澤井敦編『死別の社会学』所収の論文「第三人称の死と関わる」で論じていて、彼女にしかできない分析で勉強になるのだが、私自身は別の印象を持ち、そのことを少しずつ考えてきた。が、やはり病気のせいで、考えを大きく前に進めることはできなかった。

その考えというのは、第五福竜丸=ラッキードラゴンの航海を、死に向かう航海、あるいはより広く成功した航海も含めた旅の伝説、神話、物語の系譜に重ね合わせるというものである。最初に思いついたのは、子どもの頃読んで感動したヘイエルダールの『コンティキ号探検記(昔は漂流記と書かれていた)』(河出文庫)。同じ太平洋を、ほぼ同じ時期に一方は東から、一方は西からこぎ出した2つの航海、その海は原水爆の実験場だった。そこから考えは広がっていく。死と再生をめぐる船旅といえば、ギリシア神話の「アルゴー船物語」で、アルゴー船といえばマリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者(アルゴノーツ)』で、ギリシア神話といえば、船ではないが、ヴェルギリウスの『アエネイス』の冥府巡りで、人類学に戻ればフレイザーの『金枝篇』である。方向を変えて、太平洋を渡る旅といえば堀江謙一『太平洋ひとりぼっち』(1962)で、たしか核実験に遭遇する記述があった。その1世紀前に同じ太平洋を渡ったのは咸臨丸で、これは服部之総『黒船前後・志士と経済』(岩波文庫)が詳しい。尊敬する同学の先輩、新原道信先生の処女作は『ホモ・モーベンス―旅する社会学』だったが、私の「旅する社会学」は、このような想像力、妄想の先にある。たとえ道楽といわれようと、少しずつ書き進めていきたい。

1つ残念だったのは、今回の第五福竜丸再訪は学部の演習の課外学習だったが、参加自由としたものの、20人いる学生のうち参加者は3人だけだったことだ。こういう機会でないと行かないところを選んでいるつもりだが、やはり行かないところには行かないということなのだろうか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 見聞録 パーマリンク

ラッキードラゴン再訪:もうひとつの「旅する社会学」に向けて への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    確認のためにウィキペディアの「久保山愛吉」の項を見てみたら、ウェブならではの悪意ある記述を読んで嫌になり、すぐ閉じてしまった。「久保山さんを含め被爆者たちの死因は原爆症ではなく輸血肝炎だった」という一見客観的で真実を明らかにするような書きぶりだが、それはまさにアメリカの示談金政策の上書きである。つまりこの手の言説は、左翼を叩いているつもりで、実は左翼の根にあるナショナリズムまで叩いてしまい、結局アメリカの奴隷に成り果てているのである。久保山さんたちと当時の医師たちは急性原爆症との絶望的な戦いを闘っていたのだ。ちなみに、輸血肝炎の皮肉は、日本に生まれ、日本を愛したE.ライシャワー大使が、1962年に日本人に襲われ、その輸血で発症したことである。たしかライシャワー大使の遺骨は太平洋に撒かれたそうである。

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