エゴイストの旅路の果て:I.ベルイマン『野いちご』を見る

人生とは面白いもので、たまたま最近わが子に「お父さんは自分のことをどう思っているの?」と聞かれ、思わず「ナルシストかな」と答えた。これも最近連れ合いと話しているとき、「あなたには競争する人生の外側がないのね」と言われた。そんなとき録り溜ていたI.ベルイマン監督の『野いちご』(1957年)を見てみようと思いついた。あらすじも知らなかったのだ。見てみると、主人公は私よりずっと高齢で、私は主人公のように過去の夢をほとんど見ないのだが、そこには他でもないエゴイストの男をめぐる物語が紡がれていた。

主人公は、短い自動車旅行を共にする若い三人連れに慕われ(これは山田洋次の『幸せの黄色いハンカチ』のタネだろう)、また道中立ち寄るガソリンスタンドの主人夫婦にも慕われるが、そうした挿話も映画全体のうつろな寂しさを埋めていない。また終幕で主人公は夢のなかで昔の父母を見、亡くなった父から手を挙げて招かれるが(このシーンはビスコンティの『ヴェニスに死す』の終幕と似ている)、そこが主人公の至福の場として描かれているようにも見えない。どのシーンでも主人公は、慕い慕われる場の外にいる。

この映画のクライマックスは、夢のなかで描かれる若い母親(口うるさい) と、現実に再会する老いた母親(やはり口うるさい)なのだろう(このシーンは新藤兼人の『濹東綺談』のタネだろう)。それらも主人公の至福の場ではないが、しかし母親の言葉の蜘蛛の糸に絡め取られている(これはわが子が私を評した言葉)という点で、主人公は「緩慢に死に至る」充足感を得ているように見える。それこそがエゴイストの源泉なのかもしれない。

むしろ主人公は、旅行中の息子の妻との会話、長年世話になっているメイドとの会話、久しぶりに会った息子との会話においてこそ、たとえ一致したり、共感したりしなくても充足しているように見える。エゴイストでナルシストであることに変わりはなくとも、会話の中に自分を置き続けることが、主人公の旅の果実ではなかったろうか。

人生の半分を過ぎて、いまさら回心できるとはとても思えない。連れ合いは「競争の外に出ないと、死ぬとき独りよ」というが、正直「まあ、独りかな」と思う。ただ、生きている間は、できればほんの少しでも人びとの会話の中に身を置いて生きていきたいと思う。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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