大河ドラマとの別れ:『真田丸』最終回を見る

子どもが見たいといったので、今年の大河ドラマ『真田丸』を毎週見てきた。子どもは途中で興味を失ってしまい(ああ、自分も『獅子の時代』のときそうだったなあ・・・)、未練たらしい親たちだけが最終回まで見続けた。作者の三谷幸喜が明言しているように、それは彼も見たらしい過去の大河ドラマへのリスペクトにあふれていて、そこが見る私たちの未練と響き合ったかもしれない。彼が幸四郎の「助左」を筋と関係なく出したように(私なら、出せないけど鶴田浩二の利休と丹波哲郎の宗久だなあ・・・、しかしこれじゃあ会合衆でなくてヤクザの親分衆だ)。

NHKの「盛り」上手もあるが、昔教科書で習ったり、司馬遼太郎で読んだりしたのとはちがう歴史上の出来事や解釈が描かれていて、面白かった。日本史の世界は、昔は大学で講じられる、何ほどか唯物史観の影響を受けた国史(山川の『日本史』!)と、地元の老人が語る郷土史の二層構造になっていたが、バブル前後に、後者が右派の評論家が叫ぶ「愛国史観」にとってかわり(もう忘れられたが、樋口清之の影響が大きかったように思う)、今はさらに後者がウェブ対応の歴史マニアによる「オタク史観」にとってかわり、反対に大学の国史が著しく衰退したように思える(吉川弘文館の『歴史文化ライブラリー』シリーズのスカスカさが象徴している)。一番興味深かったのは、主人公が「幸村」ではなく「信繁」だったことだ。信玄の影武者「典厩信繁」の名をもらった主人公が、戦国の世の終わりに、理想の戦国大名になれるはずもなく犬死にするという物語は、作者は意識しなかっただろうが、黒澤明の『影武者』の本歌取りになっていると思った。

一方で、今更唯物史観ではないが、長期的な歴史の構造変動を織り込むか、逆に現代的関心を注入するかしてもらえると、もっと楽しめたのになと思う。たとえば『花神』は、「日本において近代的個人はどのように集合的に出現したか」という司馬遼太郎の問いを、松下村塾の若者たち(尾藤イサオの伊藤、東野英心の山県)を通して描き出していたし、『黄金の日々』は「現代の日本人は、政治権力ではなく経済的市民像を追求すべきだ」という城山三郎の願いを、「助左」を通して描き出していたと思う。『真田丸』でも、国衆が戦国大名になる/なれないとはどういうことなのか、戦国大名が天下を取る/とれないとはどういうことなのか、構造的・象徴的に描き出してほしかった。しかしそもそも作者がそうしたことに関心がないのかもしれないし、あってもそれを支援する優れた大学の歴史家が今は皆無なのかもしれない。

人間像を描く脚本家としての作者の力量は、主人公を取り巻く「父たち」の描き方によく表れていたと思う。最後まで自分の小さな生き方を変えられない実父と北条氏康、偉大と卑小の二重人格を往還し続ける家康と上杉景勝。そしてヌケメがないだけの秀吉。こうした「父たち」を同性として断罪しないのが作者の男性性なのだろう。ただ、それでいいのかという疑問は残る。そういえば、子どもが興味を失ったのは、「あのつまらんオッサンの信長、ありえねえ」だった。名優吉田鋼太郎もかたなしである。

来年の大河ドラマは・・・、いやもう大河ドラマは見ないかもしれない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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