「大学なるもの」への批判と擁護:中村寛『残響のハーレム』を読む

中村寛『残響のハーレム』(2015,共和国)を読む。ニューヨーク・ハーレムに長期間滞在し、女1人男4人のムスリムのブラックアメリカンへの聞き取り調査と彼らの営む教育活動への参与(むしろ関与というべき)観察の成果を記述した作品である。エスノグラフィとして、ストーリー性の豊かなところが素晴らしく、また歴史社会学、社会運動論、ジェンダー論などの解釈枠組みを、嫌みなく組み込んだ構成も素晴らしい傑作だ。同じような傑作として、故保苅実氏の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(2004,御茶の水書房)を思い出した(とくに、坂上田村麻呂が黒人だった!という話が重なる)。さらにいえば、ポルテスの『レガシーズ』が『ポーランド農民』に遠くつながっているように、この本は、ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサエティ』に遠くつながっていると思う。

読みながら、先に取り上げた矢澤修次郎『アメリカ知識人の思想』を思い出していた。そこで移民たちの可能性を開く場として描かれていた大学(矢澤本ではシティカレッジだが、中村本ではコロンビア、ただし矢澤本の主人公たちはコロンビアに進学した)は、この本ではハーレムを蔑むだけでなく、侵略しさえする悪として描かれている。

そこにだけ私は反発を感じる。現実の大学が諸悪の巣窟であることを認めないわけではないが、現に大学人である作者の社会的存在があまり突き詰められていないというか、突き詰めないなら、そこは引き受けるべきではないかと思うのだ。坂上田村麻呂の挿話にからめて言うと、たしかに大学は「坂上田村麻呂は日本人である」と決めつけることを通して、マジョリティの国民国家を正当化する装置だが、「なぜ、彼らは坂上田村麻呂を黒人だというのか」を問うことを通して、国民国家を相対化する装置でもあり得るし、現にそうしてきたのだ。それに、そもそも大学がなければ、エスノグラフィも文化人類学もあり得ない。空気と金の流れを読むだけのマスコミには決してできないことをやっているのだ。

この本から離れると、大学人の自己否定は、「役に立つ大学」とか「儲かる大学」といった最低のシナリオを押しつけてくる政府や財界、そして、それら組織の細胞である小市民たちの劣等感に隷属する道を開くものであって、けっして容認できない。ところが面倒なことに、こうした自己否定をポーズとしてやるのは、大学教員の肩書きとアカデミックなプレゼン力を、小市民の劣等感につけ込むようにうまく利用する連中なのだ。

この本に戻れば、コロンビア批判を空想的な化け物退治のカタルシスで止めるのではなく、著者とインフォーマントによる社会運動としての教育プログラムの実践のところと突き合わせて、さらに深められることを期待したい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 読書ノート パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください