年はとりたくないものです:近頃のインタビュー調査への反発

近頃若い人の研究を見ると、些細なことに引っかかってしまって、論旨を素直に理解できないことがある。その1つがインタビュー結果の書き込み方だ。

聞き手:そういうところが多かったのかな。

語り手:多かったと思いますよ。

(宮地弘子,2016,『デスマーチはなぜなくならないのか』光文社新書,85頁.)

昔は、インタビューのやりとりをそのまま論文中に書き込まず、聞き手=著者が自分の言葉で要約して書き込むことが多かった。語りの微妙なニュアンスを伝えたいときだけ、その部分を語り手の言葉で書き込み、直後に著者の解釈を添えたように思う。なぜそうするかといえば、聞き取られた言葉の真実性に対する一次的な責任は、語り手ではなく聞き手=著者にあるからだ。「如是我聞」というわけだ。しかしこれでは聞き方の偏りが見えにくくなってしまう。その意味ではたしかに、インタビューのプロセスごと論文に書き入れることは、社会調査法における批判的な進歩の1つだ。

しかし、まさにその正当な結果として、聞き手の「いい加減さ」が暴露されてしまっているように思われる。どこが「いい加減」かというと、聞き手が語り手に「タメグチ」で聞いているところである。その結果、聞き手が女性で語り手が男性だと明らかに語り手が「上から目線」で語ってしまい、聞き手が年長で語り手が年少だと明らかに聞き手が「上から目線」で聞いてしまうことになる。語り手が子どもだったり、日本語が上手でなかったり、敬語を使わないような生活文化を生きる人だったりする場合は、仕方がない。そうではない、大人どうしの対話がどうして「タメグチ」になるのか。私にはまったく分からない。

中野卓先生の『口述の生活史』(1977,御茶の水書房)は、日本の社会学者なら知らぬ者のない(はずの)インタビュー調査の古典だが、中野先生は語り手の松代おばあさんに「タメグチ」で聞いていただろうか。逆に、決して都会的でもなく、裕福でもない人生を歩んだ松代おばあさんは、息子ほど年の離れた中野先生に「タメグチ」で語っていただろうか。中野先生が東京の大学の偉い先生だったから、へりくだって語ったのだろうか。そうではないだろう。そうしたことを、社会調査法の授業で誰も教えないし、誰も学んでいないのではないか。

ほんとうは、そんな些細なことにこだわらず、論文の中身をこそ読むべきなのだろうとは思う。そんな些細なことにこだわる私、中村光夫のいう「年はとりたくないものです」。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 年はとりたくないものです:近頃のインタビュー調査への反発

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    インタビューの乱暴さの問題は語り手の側にもあると、私は思っている。聞き手がどうであれ、親密ではない他人の質問になぜ「タメグチ」で答えるのか。それはわが国がより民主主義的になったからだという見方もあろうが、そうではなく、より相克的で暴力的になったからだと私は見ている。だから、インタビュー調査におけるラポール(語り手と聞き手の友好的な関係の構築)について、社会調査の教科書は一から書き直さなければならないのではないか。それ自体が現代日本に関する社会学的分析を必要とする。

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