『パルシファル』を見終わる:ワーグナーの嘘につきあう

昨夏のバイロイト音楽祭『パルシファル』の1幕2場以降、結局通して見てしまった。

1幕2場ではアンフォルタス王が茨冠をかむって登場し、裸体から血を噴き出して白褌を染め(ポルノビデオによくある手ですよ・・・苦笑)、その垂れた血を聖杯の騎士たちが聖杯でいただくという、聖体拝領を異教の祭典にしてしまう始末だ。対するパルシファルは、とくに痛みも感じず(原典は感じることになっているが)、ただの馬鹿野郎で、ボーッと座っているだけである。

2幕では、童貞の若者パルシファルを性的に誘惑する花々=女たちがでてくるが、これがやはり皆ヒジャブで、服を脱ぐとベリーダンスという浅はかな演出だった。対するパルシファルもコマンド兵士の扮装。もっとも物語の解釈じたいは原典からほとんど逸脱しない。いい意味でも悪い意味でも、イスラムはほのめかしのままで進む。悪役のクリングゾルはスーツを着た臆病なインポののぞき魔で(原典はアルベリヒと同じく、自ら去勢した騎士)、根元がフニャチンのかたちになった十字架を振り回す。ここで思い出したが、1幕の最初に聖杯の騎士たちが十字架を運んでくるが、そのキリストは裸で、勃起したペニスが露出していた。しかし、これらも物語にまったくつながらない。

3幕のパルシファルはコマンド戦士ではなく、ゲリラ兵(ISっぽい黒)の扮装で出てくるが、これも意味はなく。すぐに脱いでしまう。グルネマンツは車椅子の爺さん、クンドリは介助の婆さん。巨大なペニスのような花が舞台の上に伸びてきたり、舞台の奥で、ラインの乙女のようなのが水浴びしながら裸で(肉襦袢でなく)踊ったりするが、意味が分からない。最終場への間奏曲に重ねられるCGも環境ビデオみたいで、1幕のような象徴的意味はなく、ただワーグナーのデスマスクが挿入されるのが目に付くくらいだった。結局この演出家にとっては、そうした小道具はすべて、代わり映えのしない老舗の味を味わうための薬味みたいなものに過ぎないのだろう(ハリッサ味?)。だから盛装したお金持ちたちの客席から何のブーイングもでないのだった。その予定調和的なところを、私は心の底から憎む。やはり神様、この者どもに雷を落としてください。

1点だけ面白かったのは、2幕後半でパルシファルがアンフォルタス王の苦しみを自分のものとするところ。演出はやはり下品で、誘惑したクンドリにのしかかり、正常位で射精するアンフォルタス王を舞台の奥で再現するが、それがパルシファルとアンフォルタス王がコインの両面であることを理解させるのである。きれいは汚い、汚いはきれい・・・か?しかしシェークスピアではないワーグナーは、ひたすら現実の汚さを否定し、虚偽の清浄さを誉め讃える。ワーグナーこそ虚偽という名の魔の園の主クリングゾルなのだ。そして自分の虚偽を承知していたのだ。だから『指輪』ではヴォータンよりアルベリヒが雄弁で、『マイスタージンガー』ではザックスよりベックメッサーが雄弁なのだ。

そのように見直すと、物語が鏡像のような構造を持つことが見えてくる。パルシファルとアンフォルタス、グルネマンツとクリングゾル(一緒に舞台に上がらないので、一人二役でやってもいいくらいだ)、聖杯の騎士たちと魔の園の花々。対称軸をかたちづくるのは、舞台上で演じられる2つの死、父なる神をかたどったティートレルとマグダラのマリアをかたどったクンドリ。ただしそれらの鏡像は真実ではなく嘘を突き通すためのしかけで、それを覆い隠すように仰々しい音響が吹き鳴らされるのである。

嘘で塗り固めた人生というのも、1つの生き方ではある。それを芸術として(真実に仕えるべき芸術として!)堪能できることが、私にとってのワーグナーの面白さといえるだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 『パルシファル』を見終わる:ワーグナーの嘘につきあう

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    モンサルヴァート城のモデルはバルセロナ近郊のモンセラート修道院だそうである。モンセラートは「鋸山」という意味だそうで、実際にウェブサイトで見ると、カッパドキアを巨大化したような面白い地形だ。登山電車やケーブルカーも色々あって楽しそう。聖堂も現役の修道院なので、空っぽのモン・サン・ミシェルよりいい。いつか登ってみたい。

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