傑作とは言えないけれど:スコセッシ監督『沈黙』を見る

残念ながら原作を読んでいない。遠藤周作はもっぱら狐狸庵先生(ATOKで変換できない!)シリーズというか、阿川弘之や北杜夫のエッセイの敵役のイメージで(役名「町田の大家さん」)、『海と毒薬』も熊井啓監督の映画だけ、『深い河』も最近読んだというていたらく。高校の(落ちこぼれの)先輩に申し訳ない・・・。

第一印象は、昔ながらの映画的な快楽にこだわった映像だったなというものだ、村の暗い泥濘と砂浜の白日の乾燥、ムラびとの純粋さと頑迷さと役人たちの柔軟さと酷薄さ、そうした対照を、ちょっとかけすぎるくらいに時間をかけて映像化している。それもたぶんコンテを描いてカットを割り、まるでフィルムを切って編集するようにつないでいる。音もそうで、門徒さんなら「南無阿弥陀仏」の美しい声は耳に親しいものだろう(私は曹洞宗なので、ここで御念仏は考証的にちょっとと思うが)。

俳優陣の演技が見応えのあるものだった。私の印象に残ったのは第一に浅野忠信、最初ふっくらしているので尾美としのりかと思ったが、そうした身体的な感じも含め、演出と演技のたまものなのだろう。次にイッセー尾形、上手いけれど、見ている間中、その向こうに別の俳優をイメージしてしまう。それは黒澤明の『乱』の植木等だ。植木なら卑劣な感じを出さない分、かえって凄まじいものになったのではないか。忘れられないのは、終盤でちょっとだけ、台詞のない役で出る中村嘉葎雄、そこだけ兄錦之介が演じた熊井啓監督の『本覚坊遺文』のような張り詰めた雰囲気が漂っていた。というように、スコセッシ監督の昔の日本映画への造詣を感じさせられた。残念だったのは、ずっとファンだったのに、「ドレミファ娘」洞口依子がどこに出ていたか気づかなかったこと。彼女のブログで知り、省みればそうだったような気がするが、いい意味で役者としての個性を消していたと思う。私とほぼ同い年でがんサバイバーの彼女の進境を、再見して味わいたいと思う。

映画そのものは(たぶん原作も)、カトリックの信仰というよりは現代日本文化論に傾いていたと思う。だからダメというのではなく、ひとりの外国人が、訪日時に携行した(教区司教より手渡されたという)、西欧と日本の原理的な背馳(のように思われ、それに苦しむ近代日本人の自意識)に関する、きわめて現代的な(個人的な)小説を読み、日本の代表する、かつ自分が尊敬する同業の先輩と過ごした経験を、長い時間をかけて理解していこうとした精神の記録として、けっしてエンタテインメントとして完成された傑作とはいえないけれど、見応えのある作品だったと思う。再見してみたいし、これからもときどき思い出すだろう。ただし、ここに描かれた日本は、たしかに20年くらい前までは存在したが、また今でもたとえば千代田のお城の中のように局所的には存在するが、全体としては過去のものだ。だから、今の日本を理解したり、今の日本を生きる糧になるとは思えない。

カトリックの信仰に関する映画ならば、やはり福音書やパウロ書簡、イザヤ書やヨブ記や詩篇からの言葉(ロゴス)の引用で満たされるべきだったろう。でなければ、現世での「パライソ」の実現を求めるムラびとたち(それはまさに「南無阿弥陀仏」の世界だ)と、監督は同じレベルに立っているのであり、その点では、彼の信仰の不安、あるいはアメリカに生きるカトリックの信仰の錯誤を照らし出す映画ともいえるかもしれない。

一番違和感があったのは、予算の都合でそうだったらしいが、ロケ地が台湾なので写された風土や空気が亜熱帯のそれだったことだ。五島列島に行ったことがないのではっきりとはいえないが、九州の気候はもっと温帯的で、こんな感じではないと思う。ただそれは狭い見方で、江戸時代の気候は今とはちがっていたかもしれないし、そもそもこれは寓話や神話としてみるべき物語なので、舞台はリアルな江戸時代の九州ではなく、失われた黄金の国ジパングでいいわけである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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