社会人大学院の同窓会:教師の勘違い

昨夕は、私の病気もあって途絶えていた社会人大学院修士課程で私の指導した学生の同窓会が開かれた。01年の着任以来40人ほどの学生を指導したうち、15人の方が集まった。男女ほぼ半々(霞ヶ関用語では「均等」)という所もちょっと書いておきたいところである。15年以上にわたるので、皆が同じ授業やゼミで学んだわけではないが、2~3年に1回ほどこうした会合を持っていたこともあって、皆さんすぐに打ち解け、学年を超えて自由に交流されていたと思う。

私はといえば、帰りの新幹線で、ちょっと考え込んでしまった。これまで私は彼女ら彼らに何をすべきか、何をしたいかばかり考え、彼女ら彼らにとって自分がどんな存在なのか、どんな「社会的機能」を果たしているのか、考えてこなかった。とくに教師として、修了させる、論文を書かせるという成果に向けた一方向の(それも自分の思い込んだ)プロセスにすべて嵌め込んできたが、その結果見えなかったこと、見ようとしなかったことが多かったなと思った。極端に言えば、教師としての自分の有能性の道具にしてきたと言われても、反論できない。

ただ、そんな私でも何らかの「社会的機能」があったので、こうした集まりが続き、招いてもらえるのだろう。では、それは何か。そこをよく考えていくことも、長期的な意味で、私の病を治していく筋道ではないかと思われた。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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