ヒトはなぜ本を読まなければならないのか:ある新聞投書への回答

朝日新聞の3月9日朝刊13版(名古屋版)「声」欄に「読書はしないといけないの?」という不思議な投書が掲載されていた。大学教育学部で学ぶ東京都在住の男性の投書者は、若者の読書離れへの大方の懸念に疑問を返し、自分はこれまで読書から恩恵を感じたことはないので、読書しなければならない確固たる理由を教えてほしいと訴えている。私が不思議と言ったのは、彼は「読書より大学の勉強が必要」と書いているが、少なくとも教育学部では読書を伴わない勉強はあり得ないからだ(元教育学部教員として断言する)。また高校卒業までまったく読書を必要とせずに教育学部に入学できたというのも不思議な話だ。もっともこれは彼の問題というよりは、そんなまやかしの教育をしている学校や大学の問題だろう。たとえ数学であっても、高等教育以上で読書の伴わない勉強はあり得ない。

東京大学文科3類(当時は文学部と教育学部進学予定者のコース)に入学した30年前、フランス語未習クラスのひとりが「僕はこれまで読書なんてしたことがない」と粋がっていた。もちろんクラスメートの反応は、私も含めて冷たい軽蔑だけだったが。一方、投書者はほんとうに読書の必要性を感じていないようだから、以下に記す理由ではたぶん納得せず、もっと別の「処方」が必要かもしれない。でも、投書から離れて、一度ていねいに考えてみたく思った。彼ほど明確ではなくても、一学年の子ども100万人のうち10万人以上が受験するような(これって異常だと思いませんか?)大学の大人数の講義では、こうした疑問を抱えている学生は結構いるはずだから、それへの対策が必要だと思われるからだ。

私が「読書をしなければならない」と考える理由は3つある。第1の理由は、本は人類社会が知識を生産し、流通させる現時点でもっとも普及したツールなので、読書というかたちでそのサークルに参加することは、各自が生きていく上で有用であるだけではなく、そのサークルをつねに生き生きとさせておくために分かち持たれた義務でもあるというものだ。強い言い方をすれば、人類社会の一員である私たちに「読まない自由」は存在しない(「自殺する自由」と同程度には存在するだろう)。ウェブがあれば大丈夫というが、ウェブも、現時点でも未来にわたっても読書文化の上に二次的に存在する他ないものなので、その理屈は通らない。映像や身体表現など広義の表象文化は読書文化と並立し得るが、読書なしの表象文化を想像することも、少なくとも現時点では困難だ。

第2の理由は、とくにウェブが発展させた情報の氾濫のなかで、ひとりひとりの市民がその正誤や真贋を自分で判断するためには、継続的な読書体験が欠かせないというものだ。読書は原理的に一塊のつながりのある情報に長時間拘束され、それをただ知るだけではなく理解することに苦労する体験である。苦労することを通して精神が構造的に変化し、情報に対する免疫力のようなものができてくる。これは「朝まで生テレビ」的討論でも、大学の大教室講義でも困難なことで、西欧近代の哲学の言い方では(これも読書しないと知り得ない)「公共性」(ハバーマス)より「自己との対話」(アレント)ということになるだろう。グローバル時代の市民として生きる上で読書より大切なものはなく、それを感得させることがユニバーサル段階(全入時代)の大学の使命であると私は考えている。

第3に、これはまったく功利的な理由だが、世の中で成功している文化人でも経済人でも「私は読書などしない」という人はほとんどおらず(昔はいた。佐世保ドックの社長とか・・・)、たいていは(成功したあとの後付けの場合もあるが)読書が私を育てたと言っている。とすれば、成功するためには読書が必要条件で(もちろん十分条件ではない)、また成功した人とつきあうためにも読書は必要条件であるということだ(これも十分条件ではない)。投書者は趣味の1つではないかといっているが、読書はそんな甘いものではない。とくに成功していないとき、逆境のときこそ、読書が飛躍の契機だったという成功譚にはこと欠かない。要は成功したければ本を読みなさいということだ。

もちろん以上の理由には留保が必要である。まず生得的・器質的に読書が困難な人に狭義の読書を無理強いすべきではない。目の見えない人にとっての点字や音読のように、読書に相当するコミュニケーションツールが十分に整備されるべきである。また文化的、宗教的理由から読書が制限されている人の存在をむやみに否定すべきではない。また歴史上文字を持たない文化(いわゆる「グーテンベルクの銀河系」以前の社会)の存在を軽視すべきではない。ただし、そうした文化上の読書禁制がしばしば政治的な抑圧の道具であったことを考えれば(焚書坑儒)、読書に革命的行為としての意義を認めてもいいだろう。

もう1点、仮に私のいう通り、読書はしなければならないことだとして、にもかかわらず投書者のような若者が後を絶たないなら、そこには読書階級と非読書階級といった階級社会が出現する虞があるかもしれない。そうした社会は歴史上例に事欠かない(たとえば「暗黒の中世」や日本の江戸時代)。それは稿を改めて考える必要があるだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください