地域コミュニティに代わる概念を求めて:若手社会学者の労作発表を聞く2

前報では学問の外側の話ばかり書いてしまったので、今回は研究会の、私からみた核心について書いてみたい。お二人の若手研究者の発表の核心は、ともに従来の、価値判断を持ち込みすぎた地域コミュニティ概念に代えて、フィールドワークに基づく新しい概念を模索することにあったと思う。共通するのは「共同性」で、それが成り立つ条件を「場所性」と呼んだり「地域社会」と呼んだりしていた。字面だけではそっけないが、議論の中身はいずれも探究的で、充実したものだった。

都市とは何か?を問うとき、私ならば地域コミュニティを都市に抵抗する文化と捉えて(松田素二風に)、その外側に都市の本質として「群衆の居場所」を見出す。一方、地域コミュニティを自明視したり、肯定したりはしないものの、「共同性」に固執するお二人の研究に「群衆」の入りこむ余地はない。むしろ若林幹夫氏の「二次的定住」概念の方が活用されるのである。都市で「共生」し、都市を「生き延びる」ための共同性、これこそ『ポーランド農民』の「フィリスティン/ボヘミアン/創造的個人」以来の、都市社会学のセントラル・ドグマである。

共同性の成り立つ条件についても、私ならば歴史的に構築/破壊される建造環境(都市空間)と捉えて、それを「群衆の居場所」と呼ぶ(上野千鶴子流に「群衆を容れるハコ」と呼んだ方がよかったかもしれない)。一方、「共同性」と連動させるお二人の見方は、建造環境よりも一定の範囲を持った社会的ネットワークの一定の持続と動態に注目して、それを「場所性」とか「地域社会」と呼ぶのである。これまた、『都市のドラマトゥルギーが』が建築系の都市論を批判して以来の、都市社会学のセントラル・ドグマである。ただしこちらは都市社会学に限られない。農村社会学でも鈴木栄太郎の「三つの社会地区」以来、共同性の成り立つ条件の議論は十分に積み重ねられているから、むしろ地域・都市系の社会学のセントラル・ドグマというべきだろう。

こうしたお二人の主張に対して、私のコメントは唐突にも「共和国」はどうでしょう、というものだった。我ながら唐突に過ぎ、フロアも含め「ハァ?何、それ」だったようだ。一応論拠はあって、それは黒田美代子『商人たちの共和国 新版』(藤原書店,2016)である。C.ギーアツ(この本では意図的にこの表記が使われている)を踏まえた、今は破壊されたシリア・アレッポのスークの小商人たちの聞き取り調査だが、そこに現代の経済や政治に対抗する文化として「商人たちの共和国」を見出そうとするものである。現実にはその共和国は廃墟となり、またルソー的な市民宗教たるイスラム教についての分析がほとんどないので、この概念も空想的なものに留まっているが、しかし私は、コミュニティに代わる概念は、とくに現代日本においては「共和国」を追求せざるを得ないのではないかと考えている。

そのために、この春はまずモンテスキューとトクヴィルから読んでみようと計画している。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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