「精力善用、自他共栄」の真意:母校の校是を見直す

今朝の『朝日新聞』朝刊14版1面の鷲田清一「折々のことば」はデカルトの引用で、「よい精神をもつというだけでは十分ではないのであって、たいせつなことは精神をよく用いることだ」(『方法序説』)とあった。ああこれが、わが母校灘高の校是「精力善用、自他共栄」の原典なのか、と驚いた。いうまでもなくこれは嘉納治五郎のことばであり、嘉納は灘を設立した酒造家の同族で、開校時の顧問でもあった。だから母校の校技は柔道で、あまり言われないことだけれど、私たちは中学1年から高校1年まで毎週柔道を習うのである。しかし嘉納は国際派の近代人でもあった。彼がデカルトを深く学んだだろうことは、想像に難くない。きっと嘉納は、「よく用いる」の「よい」とは何なのか、何のためなのか自問したに違いない。その答えが「自他共栄」なのだろう。これも「共栄」がその後乱用、悪用されていった歴史(校章の左右5対3対の波印は「八紘一宇」を表していると、日本史の先生が教えてくれた)を踏まえた上で再考するなら、「共」の内容が「他」だけではなく「自」であるところ、侵略の歴史とはうらはらに、「自」と「他」の水平性を意味しているところ、さらに西欧的な「正義」ではなく東洋的な「繁栄」をめざしているところに、日本の近代人である嘉納の真意があったのではないだろうか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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