革命的行為としての読書:読書はしないといけないの!

先便「ヒトはなぜ本を読まなければならないのか」で、朝日新聞投書欄の「読書はしないといけないの?」という奇妙な投書について考えてみたが、その後4月5日朝刊投書欄「どう思いますか」に4通の応答的投書と、大田堯東大名誉教授(まだ健在とは!)のコメントが掲載されていた。女子中学生が読書に否定的、中年女性が両義的、高齢男性2人が肯定的という分布が面白い。狙って選んだわけではないだろうから、この分布は読書が男根的な行為であることを示唆しているのではないか。「読書の前に感性を磨け」という大田先生のコメントは、『エミール』が正典だった昭和の教育学の古ぼけた味わい。

同じ朝刊の「地域総合面(たぶん愛知・岐阜・愛知三河版のみ)」に呉智英が「ロシヤ革命100年に寄せて」という文章を寄せていて、こちらの方が「ハタと膝を打つ」内容だった。申し訳ないことながら、呉の議論に納得するのは今回が初めて。

呉が紹介するのはヴァレンチノフ『知られざるレーニン』(風媒社、1972年)という本で、ヴァレンチノフが、ドイツの哲学者アヴェナリウスを知らなかった友人レーニンにドイツ語の本を貸すと、レーニンがひと月足らずで読了した上、そこから『唯物論と経験批判論』を書き上げたという挿話だ。その後ヴァレンチノフはレーニンに逐われたらしい。

先便を書きながら、実はずっとレーニンについて考えていた。膨大な全集を総覧したわけではないが、少なくとも『何をなすべきか』を読んだ限りでは、革命家レーニンの核心は読書にあるように思われた。その具体的な姿を、ヴァレンチノフを通して呉は私たちに教えてくれる。やや大げさかもしれないが、それは20世紀の革命的行為の第一のモデルであり、だから多くのエリートたちは読書にいそしんだのだろう・・・し、今も一部のエリートたちはそうしているだろう。ただそれは、旧体制を打ち倒して新しい世界を開く一方、同志を死に追い詰め、世界を恐怖で支配する「暴力」に他ならない。私の講義「市民運動論」では、だから市民運動の対蹠的な敵手として、レーニンを挙げるのである。

この「暴力」に立ち向かうにはどうすればいいのだろう。私はそれも読書であると思う。読書の、道元禅師のいう「回天の力」を活かしながら、人への攻撃や支配に向かう具体的な方向を禁じ手にすること。どうすればそうできるのか。そのことを考えるためにも、やはり「読書はしなければならないの!」

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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