社会的行為としての読書:「読書はしなければならないの!」補遺

前便を書き上げてから気づいたのは、そこで述べた考えもまた私オリジナルの感性からでたものではなく、読書がもたらしたものであることだ。社会的行為としての読書という考え、それもただの構造的反復ではなく創造的解放であることを教えてくれたのは、佐藤健二先生の『読書空間の近代』(1987,弘文堂)である。その佐藤先生もたぶんオリジナルの感性からではなく、L.アルチュセールと彼に学んだJ.デリダに学ばれたことが多かったのではないだろうか。そう考えてくると、大田先生の「まずオリジナルな感性を磨け」というのは、ますます嘘くさく感じられてくる。

「感性を磨く」というかけ声は、戦間期ドイツのワンダーフォーゲル運動などにも通じ、最終的にファシズムに絡め取られてしまう虞ありで、私は黄信号だと思う。1918年生まれの大田先生には世代体験として仕方のないところがあるとは思うが。ちなみにJ.J.ルソーも、私の「市民運動論」では対蹠的敵手の1人である。

読書に関わって、思い出した挿話を2つ。指導教官の本位田祥男に疎んぜられて、法政大学に放逐された(笑)大塚久雄は、不遇のときはまず読書だと思ってバリバリ読んだと、後年語っていた。

もう1つ、学生時代の森嶋通夫が指導教官の青山秀夫に何を読めばいいですか、と聞いたら、どうせ戦争に行って死んでしまう君たちには、マルクスよりウェーバーがいいだろう、と言われて、読んでみたらグッときたと、これも後年語っていた。

ただ2つとも四半世紀前にバリバリ読書していたときの記憶だけなので、細かい事実関係が間違っているかもしれない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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