喫茶ミロの思い出:墓場まで持っていかない話9

休憩時間に、ふと書架から荒木経惟『トーキョー・アルキ』を取り出して眺めていたら、御茶ノ水駅前の画廊喫茶ミロから歩き始めるとあって、急に四半世紀前の思い出が蘇ってきた。東京歩きの達人アラーキーでも初めて入ったというその店に、いっとき何度も通ったことがある。90年代でもすでに相当古ぼけていて、いつも客の入りもよくなかったように覚えているが、この写真集が出た09年までは続いていたのだ。

駆け出しの私は、ある学会の下働きを命じられた。その仕事とは私の師匠が滞らせていた学会機関誌の刊行正常化で、師匠が1人で抱えていたのを委員会で分業し(実際は委員長と私で二分しただけ・・・苦笑)、出版社との関係を整えれば実現するという筋書きだった。ところがこの出版社が難物で、牢名主のような社長がこれまた1人で仕切っているのだった。学会としては最終的に師匠と一緒にこの社長もクビにするつもりだったので、徐々に編集のハードルを上げて相手を追い詰める作戦で、その前線を私が担ったわけである。

だから、ミロでの会合は長く、陰鬱なものだった。社長はどこか体を壊していて、話の焦点が定まらない。でも、父の老舗(戦前に、鈴木栄太郎『日本農村社会学原理』を出した!)を継いでこの業界で長くやってきた自負があるから、すぐに話が大風呂敷になってしまう。そんな話を延々と聞かされた後、社長が頷けないような編集条件を切り出すのが私の仕事だった。ときにはたがいに声を荒げ、誰もいない店内に響き渡った。しかし終わる頃には社長の機嫌は直って、決まって「お前の師匠の処女作もうちで出したんだ。お前の本も出してやるから、しっかり勉強しろ」と言うのだった。私は、「この時間、勉強させてくれよ」と心のなかでつぶやいた。

いよいよ契約を打ち切ることになったとき、社長は私のうちに電話をかけてきた。泥酔している様子だった。いつもの通り強気に契約復活を要求してきたが、私の方が悲しくなって声を落とすと、急に弱気になって。「まあ、君のせいじゃないからな」と言った。「お役に立てなくて」と言うと、「君の本を出してやる約束は守るからな」と言って、電話は切れた。その後二度と彼と会うことはなかった。数年後、人づてに彼が亡くなったことを聞いた。彼の出版社がその後どうなったか、私は知らない。

当時新婚だった連れ合いは、「あの頃のあなたは、飛ぶ鳥を落としていたものね」と笑う。しかし、実際はあのミロのような所を生きていたのだ。そして今も、どこか、私はミロのような所を生きているのだ。ミロ、今もあるのだろうか。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 喫茶ミロの思い出:墓場まで持っていかない話9

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    ミロ以外に呼び出されたこともあった。詳しい場所は忘れてしまったが、水道橋近辺の大学の教室で、何か古ぼけたマルクス経済学の雑誌の編集委員会の場だった。私が入ると、その場にいた先生たちが、胡散臭そうな、暗いまなざしをこちらに向けてきた。若い私は、それなりに輝いていたのだろう。運命とは因果なもので、その場にいた何人かは、6年後今の職場で同僚になったのである。向こうは忘れていたが、私は覚えていた。

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