歴史社会学者ではありません:関礼子編『”生きる”時間のパラダイム』を読む

立教大の関礼子先生は、私の同世代の社会学者のなかで早くから優れた仕事をされてきた方で、師匠の飯島伸子先生の被害者構造論に留まらず、また鳥越皓之流の生活環境主義でもない、第三の環境社会学を探究されてきた。この本も、その前の『鳥栖のつむぎ』(新泉社)も、そうした先生の進境がうかがえる好著である。何といっても題名がいい。

驚いたことに、先生のご論考の中に、私の「〈社会の記憶〉としての墓・霊園」が引用されていた。思いもかけないところで、過去の仕事に出合うものである。私の論文は、先生が取り組まれている課題の重さにたぶん耐えられないけれど、それでも何かのお役に立てたのならたいへんうれしい。

ただ、その引用箇所に「歴史社会学者の中筋直哉は」と書かれていて、ウッと詰まってしまった。私って歴史社会学者?もちろん、関先生とは残念ながらまだ面識がなく、分野も違うので、私のヘンテコな仕事を見る限りでは、都市社会学者の、とか地域社会学者の、とはとても書けないと我ながら思う。問題は関先生にあるのではなく、そう言われて詰まる私の方にあるのだ。私は歴史社会学者というのが存在すると考えていない。

それはちょうど社会調査学者が存在しないのと同じだ。歴史社会学とは社会的事実を分析する際の方法の1つに過ぎず、その事実、あるいは研究の目的に適しているときだけ用いられるべきものだと考えている。自分では、そのことは「社会運動の戦後的位相」でしつこく論じたつもりだ。逆に、もし歴史社会学という学問があるなら、それはかつての唯物史観のような失敗、つまり人を支配するためのことば=イデオロギーの裏方に陥る他ないだろう。ちなみに数理社会学というのも同じ危険性を抱えているように思うが、幸い数理社会学を志す人には、ことばで人を支配しようとするような人がなぜかいないので安心だ。

全然ヘタレだけれど、一都市社会学者、地域社会学者として、都市社会構造、地域社会構造の分析には歴史社会学的分析が必要だと信じている。しかしそれは、都市とか地域といった空間性を備えた社会は歴史的地層によって支えられることが多いからで、しかしかつて「地域社会学の知識社会学」という論文で論じたように、都市は本質的には「歴史に抗する社会」なのだから、たとえば青木秀男先生の寄せ場労働者の研究のような、あるいは中野卓先生の『口述の生活史』のような、歴史を想起しながらも現在に強く照準する研究がほんとうは最善なのである。

つまりは、歴史社会学という副題を持つ研究を2本も出しながら、私にとって歴史社会学は敵だということなのだ。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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1 Response to 歴史社会学者ではありません:関礼子編『”生きる”時間のパラダイム』を読む

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    名古屋大学の福井康貴氏の『歴史のなかの大卒労働市場―就職・採用の経済社会学』(勁草書房)は、中身も興味深いが、題の付け方がたいへん好ましい。M.トロウ的な意味ですぐれて現代的な課題である大卒労働市場を「歴史のなかに」置き直して再考する、しかしその理論は「経済社会学」なのだ。私は青木昌彦が好きなので、「経済社会学」なら「ノースもいいけど青木もね」と言いたいが、でもこうした対象と方法と理論の明確な関係性が、社会学の命だと思う。もちろん福井氏の精進のたまものだが、同じ先生にそう習った私としては、先生が偉いと言いたい。

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