新丹那トンネルをぬけると三島だった:新幹線の社会学3

昔の日本近代文学だと、国境の長いトンネルを電気機関車で抜けると雪国で、個性的な芸者と腐れ縁になったり、高原の別荘地にアプト式鉄道で登ると肺病やみの美少女がサナトリウムにいて、生と死について考えたりするのだが(こちらは2作品がごっちゃ)、東海道新幹線で新丹那トンネルを抜けても三島駅で、富士山が見えるだけで何もありゃしない。

何を考えているかというと、新幹線のセクシャリティということを考えているのである。『雪国』と『風立ちぬ』は同世代で同じ東大国文科出の作家が、同じ軍国主義と共産党の時代に書いた、まるで双子のような小説で、国際的な評価も高い。フェミニズム批評からはどっちにしろつまらない男の自慰文学ということになるだろうが、たとえそうだとしてもその欲望のかたち、セクシャリティの現れ方が面白い。とくにどちらも列車に乗って東京から半日くらいのところに欲望があるというのが面白い。たとえばやはり同世代の、しかし学歴は天と地ほどもちがう女の林芙美子はそうは欲望を描かないのではないか。『浮雲』もやはり上越線方面の温泉に行っていたような気がするが(成瀬巳喜男の映画の印象)、そこへ行く、通うことが本質ではない。このテーマの古典的名著、W.シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』(法政大学出版局)にも、J.アーリの『観光のまなざし』(法政大学出版局)にもそうした視点はなかったように思う。

で、新幹線である。やはり行き先がエロくないのかも。と書いて、あった、あった。読んでないけれど、渡辺淳一のどれかの作品は新幹線で京都に行って不倫する設定だったような。でも、渡辺淳一のはそれこそ自慰小説で欲望の抽象度が低いし、新幹線に乗ることは本質ではないだろう。第一東京駅からイチャイチャしていてはダメである。

バブルの頃にはシンデレラ・エクスプレスという宣伝があって、実際今でも遠距離恋愛のカップルや単身赴任の夫婦の別れの風景を見かけるが、それは生活の一コマに過ぎない。

マクルーハンなら、在来線はホットだが、新幹線はクールだというかもしれない。

このテーマ、とくに『雪国』に照準して(最近再読したら、意外と面白かった)、もう少し考えてみたい。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 新企画「新幹線の社会学」, 読書ノート パーマリンク

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