社会学は何でないか:亀田達也『モラルの起源』(岩波新書)を読む

このブログでも言及したことのある岸政彦氏がより若い同業者と書いた『質的社会調査の方法』(有斐閣)は、近頃では出色の社会調査の教科書だと思われ、学生によく勧めるのだが、1点いだたけないところがある。それは「社会学って何?」という世間の問いに、社会学者である著者ですら一瞬とまどうというくだりである。

中高時代はもちろんのこと、下手をすると教養課程でも社会学を学ばず、専門課程の2年だけで、それも必修を順番に積み上げるスタイルのカリキュラムでない学部や学科(ウチのことです!)で学んだ学生が「社会学って何?」と聞かれて答えられないのは当然だ。また、駆け出しの若手が、富永健一先生のような「ザ・社会学」(あくまで本人の主観・・・笑)に反発して、「社会学ってよく分からない」というのも分かる。しかし、四半世紀近く社会学をやっていて答えられないのは、ちょっと問題ではないか。そんな先生に教えられたら、学生が答えられないのは、やはり当然だ。

ただし、自分のやっていることに懐疑的なのは気持ちが若い証拠で、岸さんは若く、彼とほぼ同い年の私は、富永先生と同じく老人(老成ならいいのだが・・・泣)だからかもしれない。

岸さんはその直後に魅力的な回答を用意していて、いわく「社会問題を調査によって研究する学問」。社会調査の教科書なのでちょっとあざとい感じもするが、この「調査によって」という点は、かつて見田宗介先生が「引き出されたデータ」という卓抜な表現で示されたように、社会学の大きな(第一ではないが)特徴だと思う。しかし、対象を社会問題に限るのは賛成できない。わが学部、わが学科、わが大学院は、故舩橋晴俊先生がその信念を私たちに強制されたので、非常に窮屈だった。舩橋先生亡き今、少なくとも私は非常に自由だ。

私自身の定義はごく簡単で、人間の創り出す集合的現象(社会的事実)を科学的手続きに沿って理解する学問、というものである。「集合的」というのは「集団」ではないところがミソで群衆や闘争も入るし、「科学的手続き」というのはあくまで手続きに過ぎず、ヒューマン・ネイチャー諸学派のように(チョムスキーの項に書いたように)、人間を科学的思考の操作対象に貶めるようなことは決してしない。逆に積極的な意味としては、宗教や民俗による先験的決めつけから自由で、結果未来に向かって自由になれますよ、ということなのだ。

さて、いくら何でも前置きが長過ぎだが、亀田氏の本である。冒頭「実験社会科学とは?」という項に「経済学、心理学、政治学、生物学など、異なるバックグラウンドをもつ研究者たちが結集し、『実験』という共通の手法を用いて、人間の行動や社会の振る舞いを組織的に検討しようとする」と書かれていて、なるほど「社会科学ではあっても社会学ではないのね」と納得する。もう分家して半世紀以上にもなるのに、隣の本家にたてつくのはちょっと残念な感じもするが、それ以上に、この分野の並べ方が面白かった。ふつう「生物学、心理学、経済学、政治学」かその逆だろう(エンゲルス的?)。もしかするとテキトーか?。でもこの集合そのものはテキトーではなくて、まさに私のいうヒューマン・ネイチャー諸学派、人間を動物の一種と見なす諸学派なのである。だから、人間は行為ではなく行動として把握され(M.ウェーバーの古典的定義、あるいはA.トゥレーヌの実践的定義)、社会は共生の構造として理解されるのではなく、振る舞い=パフォーマンスで計られるのである。

その後の展開は、著者が私より年長のせいか、とくに新しく勉強になることはなかった。唯一取り上げられるモラルの古典がJ.ロールズなんて、バブルっぽくて懐かしいくらいだ。今どきならやはりカントでしょう。実験の提唱も新しさを感じない。社会学者としては実験してもいいけど、理解すべき現実の社会的事実の方が圧倒的に多くて、実験なんかしているヒマはないでしょう、まず調査したら?と言いたい。

そういえば、最近読んだ、題名を忘れた経済学の新書が、これからの社会科学はRCT(ランダマイゼーションによる比較対照実験)だと言っていて「アホか!」と思った。RCTが使えるテーマもあるかもしれないが、少なくとも社会学では非常に少ないし、研究倫理上まずいことが圧倒的に多い、さっきのパフォーマンスと同じ差別的な発想だ。

もっとも、もし社会学がヒューマン・ネイチャー諸学派に乗り遅れているのだとすると、私は心安らかでいいのだが、利害集団としては「諸学問の争い」のなかで圧倒的に不利かもしれない。また「連帯を求めて孤立を恐れず」のような独りよがりなところが、社会学にはあるかもしれない。

学部の学生たちには、社会学とは「反・経済学」であると教えている。経済学で幸せになれるならそれでいいけれど、多分そうではないでしょう。だから経済学と逆の考え方で社会を捉える社会学が必要なんですよ、と教えている。いや、決してマルクス主義じゃないですよ。『共産党宣言』をリポート課題にしてるけど(笑)。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 読書ノート パーマリンク

3 Responses to 社会学は何でないか:亀田達也『モラルの起源』(岩波新書)を読む

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    書き終わってからふと、社会学が入ってないのは東大内部の本家分家争いのせいではなくて、亀田先生がご自身の社会心理学を「反・社会学」と考えられているからかもしれないな、と思った。それなら納得できるし、そんな社会心理学は面白そうだ。その場合の「反」の規準は、私が「反・経済学」で唱えるような「幸福」ではなくて(社会学では人間は不幸になってしまう)、まさに「パフォーマンス」なのだろう(社会学だと非効率な社会政策を導き出してしまう)。

  2. かほう鳥 のコメント:

    こんにちわ 社会‘‘学‘‘て学問て大変とおもったオバサンです。大根だって切り方を違えると仕上がりが変わります。大根の選出、切り口、道具、速度、力,等々の提示理由とか分析や調査の結果を考えそれらを論じたりまとめたりする。私の学問のイメージです。大根学??
     万物は誕生した瞬間に社会参加となる.なってきた(誕生前参加はないけど人間社会にはムーブメントは有りと思う。)栄枯盛衰 今昔未来 現実仮想 主義宗教 善悪表裏 マチ,ムラ,セカイ….○○社会の○○て いくらあるのか。***** 水飴にサクランボを入れて出す。ヤツは果実だけを食べ去る。種を飴に落として。もし種が生きてて、飴はそれをい100%止めないなら飴はその種の何某かの社会(のような、、、)とも思う。ぁぁ水飴の切り口とは。。。

  3. 中筋 直哉 のコメント:

    かほう鳥さん、コメントありがとうございます。毎年冬が来て、風呂吹き大根が食べたくなるとき、どのくらいの太さの大根を買って、どのくらいの厚さに剝いて、どのくらいの厚さに切って、どのくらい米のとぎ汁で煮て、どのくらい昆布出して炊くか、毎年悩みます。社会学もそうしたところがあるかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください