遙かなる有賀喜左衛門:本郷和人『新・中世王権論』を読む

呉座勇一『応仁の乱』が巷に流行っているそうなので、天邪鬼の私は、本郷和人『新・中世王権論』(文春学藝ライブラリー,初版は2004年)を読むことにした。当今の中世日本史学の、とくに文献史学の権威(東大史料編纂所教授)の手になるもので、それらの良さを存分に堪能できる。奇を衒わない史料を用いた、精密な論証は非常にスリリングだ。が、読みながら、私はずっと既視感に囚われていた。

この話何度も読んだことがある・・・。もちろんパクリではないし、師弟関係的としてももう全く関係ないだろう。でも読んでいる間中、私が学生の頃愛読した、中村吉治の一連の作品、たとえば『武家の歴史』(1967年)や『家の歴史』(1978年)、そしてその理論的源泉である有賀喜左衛門の文章が頭に蘇ってきた。それはたぶん、日本農村社会学の末の末のどん詰まりに連なる私にしか起こらない、誤読かもしれない。

でももし、それが単なる誤読でないのなら、この本もまたかつて盛んに論じられ、今や全く忘れ去られた「日本社会論」の系譜に連なるものといえるのではないか。それはこの国の社会構造(というものがあるのならば・・・)をデータ(史料)内在的に分析していく知の営みである。有賀や中村にはじまり、福武直『日本社会の構造』、中根千枝『タテ社会の人間関係』、村上泰亮ほか『文明としてのイエ社会』などと花開いた、その営みは、たしかに日本社会の「文化の型」が近世江戸ではなく、鎌倉のイエ、室町のムラ・マチというようにいずれも中世に形成されたことを主張していた。もっとも中世=近代起源説は、M.ウェーバーの『経済と社会』にも見られる議論のパターンであって、歴史を集団主義の内発的進化と見なす場合(データ内在的だと、どうしてもそうなってしまう)、採りやすい立場なのかもしれない。

有賀や中村と本郷が異なるのは、データというときに、有賀や中村の心にはふるさとのイエやムラ(信州辰野の平出ムラ)があったのに対して、本郷の頭には文献だけがあることだろう。また有賀にはデュルケムの、中村にはマルクスの比較社会学の素養があったのに対して、本郷は中世日本史学の伝統にのみ従っていることだろう。もっとも、そうしたことは両者の学問的能力とは関係なく、両者を隔てる半世紀以上の時間の流れがもたらしたものにちがいない。

しかし、有賀喜左衛門といっても、もう社会学者でも、誰で何をしたひとか、ほとんど分からなくなってしまっているだろう。下手をすると、江戸時代の国学者ですか?ってなことになってしまいかねない。私たちの世代までは、まだ中野卓先生にしろ北川隆吉先生にしろ、直接の教え子で有賀のイメージを明確に伝えられる人に教えてもらえたが(私が教えてもらったのは、東京教育大から慶應義塾にかけての愛弟子だった米地實先生である)、もうそれは不可能だ。さらに富永健一先生以下、有賀を頭ごなしに否定する議論ばかりが検証もされないままに定説になっていくと、この日本社会学の至宝、鶴見和子よりずっと本質的な意味で比較社会学的基礎を持つ内発的発展の理論は、まるで「失われた聖櫃」のように、図書館の閉架書庫の奥に埋もれてしまうだろう。

そうしないために、有賀喜左衛門にもう一度取り組んでみたい。本郷の本を読み終わって、深くそう感じたのだった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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遙かなる有賀喜左衛門:本郷和人『新・中世王権論』を読む への4件のフィードバック

  1. ito のコメント:

    中村吉治も本来はガチガチの文献史学出身者(大乗院寺社雑事記など)だったはずだと思いますが、経済史の講座を担当するうちに煙山村の研究のような共同体論がメインのテーマになってしまったのでしょうか。
    中村の名を別の意味で高めたのが、網野善彦に再評価された平泉澄とのやりとりでしょう。Wikipediaにも独立した項が立てられるほど膾炙していますし、史学史上のエピソードとしても何度か取り上げられたほどです。
    再評価と言えば、内藤湖南の講演です。呉座氏が最初に指摘されているように、応仁の乱以降が本当の日本の歴史という指摘を発掘したのは勝俣鎮夫氏です。しかしこれもまた今年に入ってからは、様々な人々の口の端に上るようになりました。放送大学2017年度開講の講義で本郷氏も「室町時代はつまらないんだが」と言いつつ、湖南の指摘を取り上げていました。学問にも流行りはあるものだと再認識した次第です。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    itoさん、コメントありがとうございます。私は不勉強で中村吉治の文献史学的な面をよく知らないので、今度勉強します。私にとっては、彼は何といっても有賀の退官記念論文集『家―構造分析』に寄稿した「検地帳の家」で、はじめて読んだときの感動は忘れられません。制度と実態のズレ方をこれほどリアルに書ききった論文は、そうはないのではないかと思います。元日本社会学会会長の鳥越皓之先生は「耕す人の土地」を絶賛していますね。中村の回顧録を読むと、子どもの頃自分たちの平出ムラには2人の秀才の兄貴分がいて、ひとりは諏訪中学から二高、帝大に進んだ有賀喜左衛門で、中村はその後を追ったのですが、もうほとりは海軍兵学校から駆逐艦乗りになった有賀幸作でした。このもうひとりの有賀は、大戦末期の将校不足からとうとう一番大きな戦艦の艦長になり、坊之岬沖で艦と運命をともにしました。ムラにある幸作の顕彰碑の碑文は喜左衛門の揮毫だそうです。何だか『坂の上の雲』みたいな話ですね!

  3. 上島 猛 のコメント:

    中筋直哉先生
     突然見ず知らずの者の書き込み、お許しください。私は、有賀喜左衛門先生、中村吉治先生の生まれ育った、長野県上伊那郡辰野町平出にある辰野東小学校の校長、上島猛と申します。学校の校歌は有賀喜左衛門先生の作詞です。
     今、およそ100年前に有賀先生・中村先生ら朝日村(平出など4カ村が合併してできた村)の若者が結成した「朝日会」の再結成を目指し、「朝日会」「学校朝日会」「東京朝日会」「あさひ美術館」「あさひふれあい塾」の活動を地域の方々と共にすすめています。有賀先生ら若者が、互いの志を高め、慈しみの心で支え合って、共に学んだその思いが、独特の教育風土を形作って、今もこの地に生きています。それを受け継いでいきたいとの思いからです。
     先生の2017.7.2の「遙かなる有賀喜左衛門」を偶然に目にし、思わず書き込んでしまいました。いつも、私どもの活動を有賀先生はどう見られ、なんと言われるか、知ってみたいと思っていました。先生のお目に留まれば、いずれ先生にご教示いただければと勝手に思っております。

  4. 中筋 直哉 のコメント:

    校長先生、コメントありがとうございます。私は山梨大学に勤めていた20年前、学生を岡谷市に見学に連れて行った帰りに、有賀喜左衛門の墓に詣でたことがあります。そのときは幸作のことも知らず、見宗寺の境内を巡っただけで帰ってしまったので、いつか再訪したいと念願しております。有賀喜左衛門は日本社会学史上不世出の偉人ですが、大手前大学学長の鳥越皓之先生のような直接教えを受けた世代が引退期に入られたこともあって、忘れられた存在になりつつあります。でも、若手のなかに再評価の機運もあるので、今後が楽しみです。また地域でのご活動、たいへん興味深く拝読しました。よろしければより詳しくお知らせくださればありがたく存じます。よろしくお願いいたします。

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