誰かを群衆と呼ぶのでも、誰かに群衆と呼ばれるのでもなく

とうとう3年越しのNHKドラマ『坂の上の雲』が終わった。小学生の頃原作を読んだが、まだ歴史がよく分からない上に、なぜか好きになれなくて(同じ作家の『花神』はドラマも原作も好きだったのに)、その後もずっと遠ざけていた。CG大スペクタクルの日本海海戦が終わり(東宝大プールでの特撮と一長一短か?)、日比谷焼打事件へと話は進んでいく。原作がどうだったか覚えていないが、ドラマの社会学的構図は市民(秋山兄弟と子規)+元勲(春畝公)VS群衆+マスコミ(漱石)といったかたちのようだ。平仄を合わせるように(ジャスミン革命?)、朝日新聞の土曜版に日野原重明先生が神戸の米騒動の話を書いていた。山手のぼんぼんとしては、それは恐ろしい経験だったろう。下町の小商人の娘である、日野原先生より2歳年下のわが祖母(健在!かつ日野原先生のそっくりさん!)も、川崎の大争議は恐ろしかったと言っている。つまり、群衆というコトバは、こうした特定の立ち位置からの「見え」と連動して語られるものなのだ。そうした構図の外に出たい、誰かを群衆と呼ぶのでも、誰かに群衆と呼ばれるのでもない、群衆の中の私を見出したい。それが私のライフワークだったことを、あらためて思い出した。でも、理屈を離れると、春畝公の加藤剛が素敵だった。『関ヶ原』の石田三成以来の、あり得ない素敵さだった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の仕事, 見聞録 タグ: , パーマリンク

1 Response to 誰かを群衆と呼ぶのでも、誰かに群衆と呼ばれるのでもなく

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    補足:「群衆が暴走する」なんて「コムソモールは前進する」とおなじくらい陳腐だ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください