そんな昔のことを勉強してどうするの?:社会学的方法の基礎、その2

わがゼミ生が、別の先生に「ゼミで『菊と刀』を読んでいます」と言ったら、「そんな昔のことを勉強してどうするのかねえ」と言われた、と言っていた。私の常識では、ハラスメントでない限り、同僚が教えていることについて学生にとやかくいうのは、職業倫理違反だが、そのことを問題にしたいのではない。『菊と刀』は確かに昔出版された本で、昔のことが書いてある。でも、そこでの議論の社会学的意味や著者の社会学的思考はけっして(たとえば雨乞いを信じていた昔の人のように)古びてはいない。たとえ古びていても、その古び方を議論することは、新しい思考を創り出す上で避けて通れない。ここは学問という営みの中で最も揺るぎないところだと私は思うが、そう思わない人もいるのである。

社会学は他の社会学諸分野に比べてこの点やや分が悪い面がある。というのは、経済学のように一学問一学部だと、当然その正統性を確保するために歴史的分野が確保される。大学の経済学者なら、「アダム・スミスなんて勉強してどうするのかねえ」とは(表だっては)言わないだろう。社会学もわが母校のように文学部の一学科なら、歴史的分野がないのは他の学科から馬鹿にされるし、一橋のように事実上歴史学部(上原専禄から安丸良夫まで!)なら、やはり歴史を軽視することはない。しかしいずれでもない、根無し草のわが学部では、他の分野と差異化を図って版図を広げるという意味でも、どうしてもジャーナリスティックな、突撃ルポ的な、バラエティ風な感じが強くなってしまうのである。しかし、そうしたことは本業のジャーナリストや小説家(新しいという意味でのノベル)に任せればいいし、それらは公共図書館でいつでもいくらでも読めるので、わざわざ年100万も払って山奥に来て学ぶことではないのではないか。こうした針の偏りを少し戻すために、あえて昔のことをやっているのだ。

かくいう私も、自分の専門分野の古さに飽いて、新しい看板に掛け替えることにしたのである。しかし、その新しい看板のもとでも、やはり昔の勉強をするにことは変わりない。たとえばカントとか!だって、サンデルだってデリダだってカントやっているでしょう。

ちなみにその学生に、私は故北川隆吉先生のように「あいつの分野は昔は景気がよかったが、今はもう終わってるんだ」なんて悪口は言わなかった。「この本を読みながら、みんなで考え方を深めようと思っているんだけどね」と言った。心底そう考えているのである。

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社会を田の字に分割する:社会学的方法の基礎

毎年M.ウェーバーの社会的行為の4類型を教えるときに、A:伝統(前近代社会)とB:近代社会、ア:日常時とイ:非日常時の2×2の分類表を作って、Aア=伝統的行為、Aイ=感情的行為、Bア=目的合理的行為、Bイ=価値合理的行為と割り振って説明している。こうすると4類型の対照性が際立つし、何よりこの類型が社会変動論のためにあることがはっきりする。集団の2類型や支配の3類型にもリンクできる。

こうした分類法を思いついたのは、遠い昔、前任校で初めて「社会学概論」を教えたときのことで、E.デュルケムの自殺の3類型を、やはりA:前近代社会(環節社会)とB(近代社会)、ア:安定状態とイ:不安定状態(集合沸騰)の2×2の分類表を作って、Aア=集団本位的自殺、Bア=個人本位的自殺、Bイ=アノミー的自殺と割り振って、ではAイの具体例は何でしょう。「すすめ一億、火の玉だ」ですかね、とかやっていた。この分類もアノミーと集合沸騰の相似性がはっきりするというメリットがある。

2本の論理的直交軸を組み合わせて「田の字」の分類表を作り、類型を立てて操作していくのは、20世紀の社会学の思考法の基礎の1つだ。学説史的には、いうまでもなくT.パーソンズの「型の変数」から「経済と社会」を経て「AGIL図式」に至る流れの応用といえるが、私のは、そのきわめて日本的な変奏である、吉田民人先生の教えによるところが大きい。吉田先生は講義でも修士論文の口述試験でも、何でも田の字に分類して、それを社会学的説明とされていた。

といっても、私は吉田門下でないばかりか、学部3年生のとき「社会学原論」の講義を一番前で居眠りしていただけである。実は、この夏休みに古い段ボール箱からそのときの講義ノートが出てきた。ワクワクして開いてみたが、すぐにガッカリ。全然分からずに取っているし、全面「つまらない」感じがにじみ出るようなノートだった。さらに、しょっちゅう居眠りして、字が乱れている。吉田ゼミ生だった連れ合いは、「そうかなあ、私は面白かったけど」というから、私の問題なのだろう。

でも、今になって考えると、私がつまらなく思ったのにも少しは分があるので、それは吉田先生の田の字には変動論が内装されていないのである。だからダイナミックな社会をスタティックに分類して終わってしまうのだ。私が今使っている分類のAB軸は、前近代/近代というより、C.レヴィ=ストロースの冷たい社会/熱い社会のアイデアを借用している。変動を抑止する社会と変動を強制する社会の対比だ。

吉田先生がご健在ならば、明日にでも訪ねていって話を聞いてもらうのだけれど、もうそれは叶わない。たとえ見当違いでも、あの「つまらなそうな」居眠り学生がここまで考えるようになったことを、きっと吉田先生はよしとしてくださるだろう、その上で、さらに吉田オリジナルの田の字を伝授してくださるだろう。

 

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寒々しい日独外交:ドイツ公使の発言を軽蔑する

小池百合子都知事が記者会見で「アウフヘーベン」という言葉を連発したことが話題になり、9月27日朝日朝刊が特集記事を組んでいる。そのなかで駐日ドイツ公使の「ローベルト・フォン・某」なる人物が、「日本人が使うドイツ語といえば、『リュックサック』くらいかと思っていた」と言ったそうで、この男の外交感覚の鈍さに、非常にがっかりした。どこの元ユンカー(田舎貴族)かしらないが、もうちょっと勉強してから外交官になってほしい。逆に、私たちの駐独公使が「ドイツ人が知っている日本語は『ゲイシャ』くらいかと思っていた」と言ったら、ドイツ人は「馬鹿にするな」と憤激するだろう。

ちなみに、「フォン」だからといって貴族とは限らない。かのフォン・カラヤンだって、金で称号を買ったギリシャ人の末裔だそうだから。でも、たぶんこの人、「フォン」が人間をダメにしているな。

さて、日本人が一番よく使うドイツ語とは何だろう。統計を取ったわけではないが、直感的には「カルテ」ではないかと思う。つまり医学や法学や哲学はドイツから学んだことが多かったので、その方面の言葉が日常の日本語まで入り込んでいるのだ。お菓子だって、私の好きな「ケーゼシュタンゲン」(チーズのスティクパイ)は知らなくても、「バウムクーヘン」なら皆知っている。

いい悪いは別として、「デカルト・カント・ショーペンハウアー」で青春を過ごした、かつての旧制高校生は、ドイツ語を隠語的に使っていた。旧制と新制の切り替え期だった私の師匠がふと「フライ」と言ったのを、私たちバブル期の学生は聞き逃さなかった。後で、「先生はきっと『メッチェン』っていうんだぜ」と噂しあったものである。「リーベ」とか「ベーゼ」(おっと、まちがい。これはフランス語)とか「ザーメン」とか、ああ、だんだん下品になる。とにかく「アウフヘーベン」もそうした日独交流の一側面として捉えなければ、何のための外交だか分からない。それにこれは、世界有数の都市の現職の首長であるだけでなく、もしかすると首相になるかもしれない人の発言なのだ。私がドイツの外務大臣なら即更迭だ。

でも、日本人が一番使うドイツ語は、本当はドイツ人が一番使ってほしくない「ナチス」だろう。この「フォン・某」のご先祖様がその頃何をしていたか、聞いてみたいものである。

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2017年秋の栗拾い:今年は227コ

15年目(去年13年目と書いたのはまちがいで、2003年から毎年通っていた)の豊田市足助の三ツ足(みたち)栗園での栗拾いである。家族4人で、やはり1時間で227コ拾った。来年はもう4人揃わないかもしれない。夕食はいつもの通り栗ご飯。ご飯より栗の方が多いくらい入れるぜいたくはこの時だけ。

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自分で自分をリストラする:地域社会学を教えなくなります

秋学期の学部の講義「地域社会学」の第1回の授業が終わった。この数年、五十嵐泰正先生と編んだ『よくわかる都市社会学』(2013,ミネルヴァ書房)を使って都市社会学の話をしている。ガイダンスが予定より早く終わったので、再来年度からこの科目を「グローバル社会のローカリティ」に名称変更する予定であることを話した。もちろん目の前の受講生たちには関係のないことではある。でも、自分が四半世紀それなりに力を入れて勉強してきた「地域社会学」という学問分野がグローバル化のなかでまったく時代遅れになってしまい、一から新しいことを始めなければならないと考えるようになったことを、彼女ら彼らに話してみたいと思ったのである。彼女ら彼らも将来そんな判断をすることがきっとあるにちがいないから。

話していて、ふと「自分で自分をリストラする」という言葉が思いついた。前の大学で組織からリストラされたときは怒りしか湧いてこなかったが、今私は、この言葉を口に出して、楽しい気持ちになっている。さらに想像は広がる。「いつか私が退職したら、次は、日本人でも、男でも、健常者でもない新しい教師が、私の話と全く違う話をするでしょう」。これこそ未来の可能性というものだ。

最近私の職場では、ベビーブーマー世代の同僚たちが退職にかかってきて、自分の専門分野やポストの存続に固執して、若い同僚たちに干渉や恫喝を行うことがしばしば見られる。全く「構造的に」馬鹿馬鹿しい事態だ。というのは、彼女ら彼らの専門分野もポストも、ベビーブームと高度経済成長の臨時収入に過ぎないのだから。彼女ら彼らの醜態を見るにつけ、「自分で自分をリストラする」私はちょっとイケてるかもしれない、とうぬぼれている。

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40年目の三笠艦:学生と記念艦三笠を訪れる

ゼミ合宿のかわりの日帰り旅行で、学生たちと横須賀の「記念艦三笠」を訪れた。ゼミではR.ベネディクト『菊と刀』を読んでいるので、近代日本の1つの象徴を見るという意味での見学だ。私自身にとっては40年目、3度目の訪問である。

最初は小学4年生の夏、東京の親戚と三浦海岸に海水浴に行く途中立ち寄った。その前の前の年に「宇宙戦艦ヤマト」が放映されていて、父は裏の「アルプスの少女ハイジ」がお気に入りだったのでほとんど見られなかったのが、かえって火をつけてしまい、終映後セッセとプラモデルを集め(安い駆逐艦ばかり・・・)、戦記物を読みあさるようになった。日本海海戦については『坂の上の雲』ではなく、吉村昭『海の史劇』(『陸奥爆沈』から続いて)とN.プリボイ『バルチック艦隊の壊滅』(原題は『ツシマ』)がお気に入りで、とくに後者は何度も読み返した。だから最初の訪問は夢のような気持ちで、帰ってから手づくりの三笠艦を夏休みの自由工作にした。もちろん展示されたそれは、他の子どもらしい作品から浮きまくっていた。

二度目は20年前の新婚当初、例の食いしん坊の師匠が道楽で中古のロンドンタクシーを買ったので、2人で押しかけてドライブしてもらった。小雨の降る日で、帰りに横浜の、まだ周冨輝が帳場に立っていた「生香園」で食事をしたのを覚えている。

そして三度目、私はあいかわらず深い感動に捉えられつつ歩き回ったのだが、学生たちは皆今ひとつピンとこない様子で、それはそれで好ましかった。こんなところで興奮する方がヘン、あるいは危険である。咸臨丸から約半世紀、あいかわらず借金まみれの輸入品ではあっても、これだけの巨大な機械、そしてその群(艦隊)を「手作業で」操るようになった私たちの先祖。そのムチャぶりの象徴が、何を考えているのか分からない小男、東郷平八郎だ。凱旋記念写真のなかでふんぞり返る大臣ゴンベエの横にぼんやり座っているこの男が、多くの兵を犠牲にすること必至のムチャな判断を下したのだ。私はこの何から何までムチャな世界を愛しているのだが、そのムチャさゆえに、学生たちがピンとこないのも当然である。

軍港めぐりの方は、ロナルド・レーガンは作戦中でおらず、穴の開いた2隻のイージス艦マケインとフィッツジェラルドが仲良く並んでドックに入院中。ソマリアで海賊対策に従事した護衛艦隊やら、木造からプラスチック製に代わった掃海艇やら、スネ夫が自慢するプラモデルのような「いずも」やら、学生たちにはこうした現在の方が勉強になったようである。

帰りにどぶ板通りでダブルR(ロナルド・レーガン)バーガーというのを食べたら、普通のハンバーガーの4個分くらいあって、50歳過ぎの胃には拷問だった。

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複製芸術のアウラ:1枚の復刻版CDを考証する

大学2年の時、W.ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」(1936年)を読むゼミが開かれたので、クラスメートの数土直紀君(現学習院大学教授)と一緒に参加した。数土君は大学入学以来ずっと同じクラス、学科、研究科で学んだ、長い学友である。そのゼミは、たぶん表象文化という看板の大学院が新設されるので、その学生募集のためのものだったのだろう。

これまたなぜそうなったか、ここでも最初の報告を割り当てられた。あまりパッとしなかったようで、教官の反応は冷淡なものだった。数土君のときは激賞され、ちょっとやっかんだことを覚えている。パッとしなかったのはピンとこなかったからで、複製以外の芸術を知らない人間(ベンヤミンの時代だって多かっただろうに)にこんなこと言われても・・・という不快感からだった。それ以来ベンヤミンは苦手、で通している。都市社会学者としては失格かもしれない。

しかし当時の芸術は、ベンヤミンが断じたよりずっと複雑で微妙なものだったのではないか。そう思ったのは、今日1枚の復刻版CDを聴いていたときである。そのCDにはベートーベンのピアノ協奏曲第3番と第5番が収録されていて、どちらもピアノは私の一番好きなピアニストM.ロン、オーケストラはパリ音楽院オーケストラ、指揮は3番がF.ワインガルトナー、5番がC.ミュンシュだ。聴いていてハッとしたのは録音日で、3番は1939年7月、5番が1944年7月だという。後で調べると、3番は独仏休戦協定の1ヶ月後、5番はパリ解放の1ヶ月前、ナチ支配下のパリの始まりと終わりにあたる。ロンはいつもの硬いタッチで弾ききっているが、合わせるワインガルトナーもミュンシュも複雑な気持ちだったに違いない。なぜならワインガルトナーはユダヤ人でアンシュルスのウィーンから逃れてきたばかり、ミュンシュはアルザス出身の元ドイツ人、でも反ナチだったから。しかし、どちらの演奏にもそうした指揮者の心の揺れを聞き取ることは、少なくとも私にはできなかった。

これがナチのチェコ侵攻前、1937年にプラハで録音されたP.カザルスの弾くドボルザークのチェロ協奏曲となると、G.セルが指揮するチェコ・フィルははひたすら懐古的なすすり泣きに聞こえる一方で、カザルスは彼らを励ますように、力強く未来の希望を語っているように聞こえるのである。

だからむしろ、2つのピアノ協奏曲の「複製芸術」は、極限的な社会状況のなかでさえ、芸術活動が、それに支配されることなく自らの価値を輝かせる瞬間を、後世に複製して伝えているといえるのではないか。

「複製技術時代の芸術」は、技術と社会の変化に囚われすぎていて、人間が芸術を立ち上げる場のアウラ(その場限りの極限的輝き)を捉え損なっている。複製技術はアウラを奪うのではなく、アウラを保存し、時代を超えて交響させるのである。その可能性こそは、結局はベンヤミンの命を奪ったような暴力から私たちを救うに違いない。

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市井の職人に出合うよろこび:「中央フラワー」の花職人

新婚の頃から指導していただいている、野口整体の指導者が国立にいらっしゃって、子どもたちと一緒に毎年2回、親類を訪ねるように訪ねるのがわが家の慣例だ。子どもが小さい頃は泊まりがけで黄色いシエンタを走らせたが、子どもたちが大きくなったこの数年は新幹線で日帰りだ。行きがけには必ず「中央フラワー国立南口ガーデン店」に寄って、花を買う。それは、花束を作ってくれる職人の手さばきに惚れてのことなのだ。

花の種類も2つくらい、2千円くらいの小さな花束を、実にていねいに、手際よくまとめてくれる。その手さばきの落ち着いた感じが非常に好ましい。人あたりも濃くなく薄くなく、できあがると年2回しか来ない客に(よほど変わった客なのか?・・・笑)、外交辞令でなく「いつもありがとうございます」と言ってくれる。ちゃんと客をつかんでいる証拠だ。また花束ができる間、それぞれに育て方、楽しみ方が添えられた、店内の変わった花や木を眺めるのも楽しい。

最近早稲田界隈の小さなフランス料理屋でランチを食べたら、とても美味しくて、たぶん「旨かった」という顔をしていたのだろう。レジの向こうでシェフが「どうだ、旨かっただろう」という顔で笑っていた。こういう職人も好きだが(自分自身はこのタイプ)、「中央フラワー」の花職人のような、さりげない感じ、いやもっとはっきり言うと「けっして誇らない感じ」はいっそう好ましい(わが師匠のタイプ)。いったい花屋にはこのタイプの職人が多いので、花を買うのはいつも楽しい。パン屋やクリーニング屋にもこのタイプの職人は少なくない。そしてそうした職人たちの巨大な集積体が都市東京なのだ。

いい魚が入ると、それを飽かず見つめる幼稚園帰りの私(サカナくん?)に「お母ちゃんにいうて、買うてもらい」と笑顔で怒鳴った隣の魚屋の大将。商店街のなかで育った私は、品物以上にその品物を作り、売る人びとの心と体が気になって仕方がない。よい職人に出合うと、心の栄養をもらったような気がするのだ。

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きっとこの日が来ると思っていた:杉原邦生演出『夏の夜の夢』を見る

名古屋から家族で上京し、池袋あうるすぽっとで杉原邦生演出のシェイクスピア『夏の夜の夢』を観劇した。いつか、きっとこの日が来ると思っていた。

新婚の頃は仕事がややこしい割に実入りは少なく、連れ合いが就職したがともに薄給、加えて自腹で行き来する「愛は遠く離れて」(ベック夫妻)生活がはじまり、子どもが生まれたので制度の上限まで非常勤を掛け持ち、やっと給料のいい大手私大に転職できたが遠距離通勤は変わらず、その上社会人相手なので土日出勤が多くて・・・。だんだん観劇とか音楽鑑賞とか絶対無理と思うようになっていった。自宅でケーキを焼いたり、地元の山に栗拾いに行ったり、できる楽しみを見つけてきたが、観劇や音楽鑑賞を、今度は家族で楽しめる日が来ることをずっと夢見ていた。

この舞台で恋人たちを隔てる「壁」(本来の役名はスナウト)を熱演している海老根理君は、今の職場に移って最初のゼミ生である。今も昔も私のゼミは不人気で、テレビ論とか広告論とか、他の人気ゼミに入れなかった学生が流れてくる。海老根君もその一人だったろう。そんな彼らに、私はベラーの『心の習慣』とかハバーマスの『公共性の構造転換』といった、辛気くさい読書を押しつけていた。卒業するとき、海老根君は役者になるために、老舗劇団の研修生を受験すると言ってきた。老舗なら試験勉強の役に立つかもと、私はスタニスラフスキイの『俳優修業』を貸した。役には立たなかっただろうが、彼はみごとに合格し、『俳優修業』を返しに来た。私は、舞台に立ったらぜひ声をかけてくれ、見に行くから、と言って送り出した。社会学部だけれど、私が教師として彼にしたことは、『俳優修業』を貸したことだけだ。

病気がよくなってから、Facebookで海老根君が「ガレキの太鼓」という劇団で活躍をしていることを知り、友だち申請をしてみた。海老根君は覚えていてくれ、今回の舞台を知らせてくれたのである。2時間半、シェイクスピアをよく練り直した脚本・演出と、シェイクスピアの空間をそれぞれの身体で演じきる俳優たちを家族皆で楽しんだ。終演後ロビーに顔を見せてくれた海老根君に、私は「きっとこの日が来ると思っていた」と言った。私はほんとうに幸せな教師である。

「きっと来るのこの日」なのは、私たちの家族にとってもそうだ。子どもたちが大きくなり、大人4人でこうして観劇できる。秋には演奏会にも行こう。でも、親たちがかつてそうであったように、子どもたちはすぐに巣立ってしまう。シェイクスピア流に言うなら、「終わりは始まり、始まりは終わり」。

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君子の交わりは・・・:旧友と京都で再会する

中学高校時代の友人とおそらく20年ぶりくらいで再会した。20年というのは、前に会ったのはまだできたばかりの京都駅ビルで、その駅ビルが20周年というのだから。

今の彼は龍谷大学で真宗学の先生をしているが、中高時代は硬式庭球部の仲間、大学は一緒に東大文学部に進学し、彼は美術史学科、私は社会学科を卒業した。それから30年、互いに父となってその子どもたちは自立しつつあり、自らの父は喪って、仕事も円熟期というよりは着陸態勢といった感じになりつつある。そのうち会おうと言ってもなかなか機会がないので、思い切ってこちらから京都まで押しかけた。駅前の豆腐料理店で昼飯を食べ、その後カフェでコーヒーと、計3時間ほど、積もる話に花が咲いた。

といっても、一通りこの間の身の上話を披露し合った後は、もっぱら勉強の話なのである。君子の交わりは、私たちの場合、勉強なのである。若い頃には、偉い坊さんになったら祇園で「顔で」豪遊させてくれ、などと冗談を言っていたものだが・・・、やはり双方そういう柄じゃない。とくに彼の最近の研究の話が興味深く、もう少し帰りの新幹線を遅くしておくべきだったと思うくらいだった。

私の理解する限りでのその話の要点は、日本の仏教界にも、江戸時代には、カトリックの「普遍論争」に匹敵するような教派を超えた教義上の論争があったが、それは明治以降の仏教界の近代化(単線的歴史観の押しつけ)のなかで見失われていた、というものである。社会学者としては、そうした論争の場すなわち公共圏の成立と構造がより面白い。丸山眞男的思想史では決して捉えられない広がりと深みがそこにはある。山深い寺まで議論をふっかけに行くお坊さんたち、街場の本屋で新刊の論争アンチョコを買い求める商人たち、付け焼き刃で勉強して政治的に介入してくる寺社奉行(たぶん小身の秀才の婿養子)。しかし私にとって一番面白かったのは、そうした論争の基底を作ったのは、誰よりも思弁的で論争的だった教祖親鸞であることだった。この個性的なカリスマについて、もう少し深く勉強したい。

京都駅に戻ると、前から一度食べたいと思っていた、「笹屋伊織」の『どら焼き』を売っていたので、迷わず買った。『どら焼き』にしても、「亀屋陸奥」の『松風』(小学校時代の塾の先生=作家の故鷹羽十九哉が京都みやげはこれ、と言っていた)、「いづう」の鯖寿司にしても、今では何でも新幹線の土産物屋で買える。たいへんいいことだと思う。

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