磯村英一のいた場所:『ベルリン廃墟大全』を読む

アイルランドの写真家キアラン・ファーへイの写真集『ベルリン廃墟大全』(青土社)は、写真以上に辛口のキャプションが面白くて、あっという間に読み進んでしまう好著である。スピルバーグ監督の『ブリッジ・オブ・スパイ』を見て以来、東ドイツという国が気になって仕方がない。そこにも手が届く本である。

しかし、あるページに目が貼り付いた。それは「ホーヘンリューヘン療養所」の項で、ドイツ赤十字の結核療養所として建てられたこの施設は、H.ヒムラーの親友の所長の下でナチスのスポーツ医学のセンターとなったが、それは表の顔で、裏の顔はナチスの幹部のモルヒネパーティの場所だったらしい。さらに最後は人体実験も行われたらしい。そこでナチスに接待され、休暇を過ごした人びとのなかに「東京市長代理」がいたというのである。

幻の東京オリンピック招致のために、当時まだ掛長だった磯村が留学とセットでベルリンに「市長代理」として派遣されたいきさつは、彼の『私の昭和史』(1985,中央法規出版)に詳しい。磯村は、面会したヒトラーの印象が温和であった一方、手が冷たかったことを回顧している。しかし、ヒトラーとどこで会い、ベルリンのどこに住んでいたか、書いていない。

真実は分からない。しかしこうした闇を匂わせるところが、磯村にしかない個性なのだろう。

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愛の書評、闘う書評:『社会学評論』32(4)の書評欄はスゴい!

皆は書評をどんな気持ちで書くのだろう。与えられた「やっつけ仕事」なのだろいか。それとも「学派」や「学閥」や「先輩後輩」間の駆け引き、政治なのだろうか。昔の大家の論文集には書評も収めることが多かったことを見るとら、もともとは書評も1つの独立した作品と見なされていたのかもしれない。格調高い東大出版会の『UP』や有斐閣の『書斎の窓』は、さすがに今でも大家然とした書評を載せている。しかしそれはそれで何か物足りない。たぶん「大家然」がダメなのだ。読まれる方と読む方が一対一の真剣勝負でなければ、読むに値する書評にはならないのだ。

そんなことを改めて考えたのは、研究室の資料棚に昔コピーした『社会学評論』32巻4号(1982年)を見つけたからである。何でこんな号をコピーしたのだろう、と疑って開けてビックリ。中野卓『口述の生活史』の書評を鶴見和子が、福武直『日本社会の構造』の書評を磯村英一が書いていた。スゴ過ぎる人選。

中身がまたスゴい。鶴見は何度もトマスとズナニエツキの『ポーランド農民』と対照させながら、『口述の生活史』が社会学の王道をゆくものであることを証明しようとする。その『ポーランド農民』がただの知ったかぶりではなくて、ハーバードの学生時代にていねいに読んだ感じが滲み出ているのである。

ちなみにR.ベネディクトの『菊と刀』を日本で最初に書評したのはたぶん鶴見で、その口吻は、中野へのそれと真逆の、冷ややかで怒りに満ちたものだった。両者の落差に、私はふと鶴見のなかの「女」を想像してしまう。書評にも、それはあっていいものなのではないか。

次は磯村の福武評である。何だか、ゴジラ対キングギドラみたいになってきた。冗談ではなく、磯村はその気なのである。15も年下の戦後社会学の帝王が官僚たちの造り出す政策に無邪気に関わっているという1点を、厳しく指摘する。磯村に言わせれば、福武が取り込まれている官僚制こそ、日本社会の構造なのである。その磯村こそは「宮仕え」の苦労を誰よりも知っていて(都知事になり損なって、都立大に島流し)、官僚と渡り合って、いわゆる「地域対策事業」を成し遂げた人なのだ。この書評は、磯村の「アウトサイダー」の血が騒いでいる。私はそんな磯村をこそ敬愛していたので、ただ一度会ったとき、郊外の豪邸で和服を粋に着こなして現れた磯村に失望したのだ。でもほんとうは、磯村の方が、北川隆吉先生のカバン持ちに甘んじている私に失望したのに違いない。

私は鶴見や磯村には遠く及ばないけれど、彼らのように書評を通して愛したいし、闘いたい。そんな書評を書いてみたいと切に思う。

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叱り甲斐のない若僧:掛川トミ子先生の思い出

昔々、まだ駆け出しの頃、後に『群衆の居場所』の第5章「群衆を呼ぶ声」となる研究を「新聞社焼打」という論題で日本社会学会大会で発表した(初出論文としては『年報社会学論集』7,1995)。会場の最前列に眼光鋭い銀髪のオカッパの年配の女性がいて、発表が終わるやいなや、厳しい声で私の勉強不足を叱り、とくに明六社以降の慶応系の新聞人についての理解が足りないという趣旨の批判をされた。その頃の私は指導教官の顔色ばかりうかがっていて、自分の話を何とか住民運動とかコミュニティといった言葉で粉飾しようと躍起になっていた。だから「共同性感覚の階層差」などと、何も言っていないようなつまらない結論をつけていた。そんな私だから、この女性の批判も全くピンとこず、「これから勉強します」的な不誠実な回答をしたように覚えている。

部会が終わると、その女性は私のところにやってきて、「今日はあなたの報告を聞きにきたのよ。私は掛川といいます」と、穏やかに自己紹介された。不勉強な私も、目の前の女性が岩波文庫のリップマンの『世論』の翻訳者、掛川トミ子先生だということはすぐに分かった。でも、あいかわらず私は馬鹿で、そんな偉い先生が聞きに来てくれる俺の方が偉い、などと思い上がって、一応慇懃無礼なお礼の言葉を申し上げたものの、なぜ掛川先生が私の報告を聞こうと思われたのか、全く考えもしなかった。私は、実に情けない、全く叱り甲斐のない若僧だった。

そのことに、今日尊敬する同僚、小林直毅先生と話していて、ふと気がついたのである。小林先生と別れてから、私は泣きそうになった。

ただ人の気を引きたいだけで付けた「新聞社焼打」という題も、ちゃんと考えれば、メディアが民衆と対立する、あるいは民衆がメディアに立ちはだかるといった、きわめて歴史的かつ社会的な事実を示唆し得ており、またその事実は社会史とメディア史の並行、交錯として初めて理解でき、さらに「朝日、死ね」などという言葉が踊る現在にも通じる構造的問題だったはずだ。そうした可能性をおそらく掛川先生は先物買いしててくださったのに、売った本人は自尊心と依存心に凝り固まっていて、大化けさせることができなかった。『群衆の居場所』にもそうした視点は皆無である。

せめて今気づいたことを幸いと思い、小林先生はじめ日本有数のメディア論の専門家を擁するわが学部で、もう一度自分の専門を鍛え直してみたい。

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こそばゆい引用:清水唯一朗『近代日本の官僚』を読む

学生指導の必要があって、清水唯一朗『近代日本の官僚』(2013,中公新書)を読んだ。論旨明快、資料豊富で、たいへん勉強になる好著である。というか、昔ぼんやり考えたことが、明快かつ詳細に実現しているのを見て、うれしくなった。

昔というのは、副田義也先生が90年代に熱心に取り組まれていた大霞会の『内務省史』を読む科研費(09301007)の研究会で、私が担当した部分がこれだったのである。2000年刊行の報告書には「内務行政と議会政治」という名のささやかな論説を載せてもらったが、その後研究会から脱落してしまい(どこでもそう、私の悪い癖)、副田先生の単著『内務省の社会史』(2007,東大出版会)、研究会の共著『内務省の歴史社会学』(2010,東大出版会)のどちらにも顔を出していない。ただ副田研究室の同人誌『参加と批評』3(2009)所収の「書評セッション」の書評者として言いたいことは全部吐き出したので、私自身は晴れ晴れとした気持ちである。

ところで、参考文献まで読み進めて不思議なことに出合った、第6章の文献のうちに拙著『群衆の居場所』が挙げられているのである。第6章は拙著の研究対象である都市騒乱への言及は最小限で、引用記号もない。一方で、これも不思議なことに、副田グループの研究、文献への言及、引用は皆無なのである。あとがきを読むと、著者の研究が本格化したのは副田研究室のプロジェクトが終わった頃だから、始めた頃は知らなかったということは十分あり得るが、何でも検索できる今どき、本を出すまで知らないということはあり得ない。

私は勝手に、副田グループの研究は評価しないが、中の中筋の研究だけは多少興味を覚えた。ただその研究を中筋は公刊していないので、単著をかわりに挙げて、その興味を示したということだと理解した。それで「こそばゆい」気持ちになったのである。

でも、著者にあえて申し上げたいのは、私の研究はこれ以上深める能力がないので、放っておいていただいて、副田先生のお仕事の大きさをぜひ積極的に評価していただきたいと思うのである。先生はあの独特のお人柄と文体なので、副田社会学のユニークさは同業者でもあまり分からないのではないか。でも、戦後日本社会学の1つの到達点として、改めて再評価すべきものと、私は確信している。

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成田の空と大地:「空と大地の歴史館」をたずねて

高速バスの停留所案内が「次は三里塚です」というのを聞くと、さっと体が硬くなった。外は畑の中の道にロードサイド店が並ぶ、典型的な日本の郊外の風景だ。そこには暴力のかけらも見られないが、子供の頃の記憶のなかの「三里塚」は、「ダッカ」とか「テルアビブ」と同じ暴力の象徴なのである。

三里塚バス停を通過したバスは唐突に空港区域に行き当たる。禍々しい爪を尖らせた壁が現れるが、すぐに切れて、あとは空港が丸見えだ。昔は機動隊が並んでいたのにな、と思っているうちに、「航空科学博物館前」に着き、バスを降りた。

平日の午前に訪れる人などいまいと思っていたが、「歴史館」に着くと、スーツを着た若い男女の集団が館員の説明を受けている。空港関係会社か何かの研修だろうか。すぐに会議室に消え、館内は私1人になった。

一応「市民運動論」を担当しているが、名前を聞くだけで怖じ気づくような私に三里塚を語る資格はない。ただ尊敬する隅谷三喜男の精神に少しだけ触れたくて、ここに来たのである。歴史書などには「行司役」などと呑気なことが書かれているが、そんなものではなかったはすだ。その上、あの宇澤弘文を片腕に頼む度量(私なら絶対使いこなせない、たぶん「お前、口だけじゃないよな」という使い方、あるいは清水次郎長と森の石松)。いわゆる市民派でない(呼びかけ人とか?・・・笑)、学者の社会への関わり方の1つの「理念型」を、隅谷先生は示してくださったのだと思う。しかし、今後そんな学者がこの国に現れるだろうか?

展示を見ながら感じたのは、むしろ政府の側の感情的かつ暴力的な執拗さである。ほとんどDVだ。いや、喩えではなくて、職場で上司にいびられているお父さんが、腹いせに家でお母さんを殴っているといった風なのだ。それならそんな職場(今からでも)やめればいいのに、というのは後付けの理屈かもしれないが、私はそう思う。「ダイヤ買っちゃった」みたいな「いずも」なんかやめて。「三丁目の夕日」はほんとうはDVの血に染まっていたのだと、それをただ怖がっていた子供の私は思う。

勉強ついでに佐倉市の国立歴史民俗博物館に回って、企画展「1968年」を見た。悪いことはできないもので、こっそり勉強しようと思って行ったのに、入り口で今を時めく社会運動学者の富永京子さんとパートナーの武田俊輔さんにバッタリ。無知がバレるので、「お邪魔でしょうから」とごまかして、さっさと先に回ってしまった。企画展の方では折原先生と見田先生の意見表明のナマ「ガリ版」(笑)、常設展では「洛中洛外図屏風 歴博甲本」が眼福だった。

ところで、帰ってきて湧いた疑問。東京ディズニーランドは、なぜ京成電鉄がやらせてもらえたのだろう。

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ののちゃんのお父さんが造っている艦:朝日新聞朝刊の全面広告

今朝11月14日の朝日新聞朝刊の中程に、2面を使った全面広告を三井造船が載せている。百周年で社名を変えるというのが趣旨だが、面白いことにいしいひさいちが四コマ漫画を特別寄稿している。朝日新聞朝刊の連載漫画『ののちゃん』の舞台が「たまのの市」で、お父さんの勤め先が造船所であることは、最近ひんぱんに描かれてきたが、この特別寄稿では、彼の一族が三井造船玉野造船所で働いていることを自ら明らかにしている。ファンには自明のことかもしれないが、私は今朝はじめて、ののちゃんが彼の自画像で、『ののちゃん』が彼の家族の物語であることを知った。『がんばれタブチ君!』以来、プライベートを明かすことが少なかった彼なのに、この寄稿では全面開放していることは、やはりこの国において家族の力には抗えないことを示しているのかもしれない。

記事の中心は「さかなクン」と社長の対談記事、聞き手は女性記者となれば完全にソフトなイメージなのだが、私の目は右面下の「404」と大書されたバルバスバウの灰色の艦の進水式の写真に釘付けになった。キャプションは「造船で培った技術でさらなる発展をめざす」とあるが、本文のどこにもこの艦が何であり、どうキャプションに見合っているのか、書かれていない。そもそもこの写真は誰に向けて貼り付けられているのか。長年の愛読者ではあるけれども、私が「朝日はぜったい信用できない」と思っているのは、まさにこうした狡猾さ(卑屈さ)なのである。

ここからはウェブの出番だ。ウェブで検索すればマスメディアが頬被りしていることは全て露わになる。「404」は艤装中の新造潜水母艦(と海上自衛隊では呼ばないが)「ちよだ」で、海上自衛隊は2つの潜水艦隊に合わせて2隻の潜水母艦を持ち、さらに「いずも」など最近の巨艦ブーム(次は満載1万トン級で、名も大和、武蔵か?)で石川島播磨(今はそう言わない)に後れをとった三菱が、財閥仲間の三井と組んで受注の巻き返しを図っていると書かれている。昔の軍縮条約ではないけれど、「いずも」とちがって補助艦は私たち納税者から見えにくい。もちろん原子力でない潜水艦を持てば母艦は不可欠だ。しかし戦争を放棄した国に潜水艦は必要か。マンガじゃあるまいし・・・。

さて潜水母艦の仕事は補給と救難で、とくに深海で潰れた艦からの乗員救助は至難の業だろう。そこでもう一度広告を見直すと、海底調査の「チームクロシオ」の宣伝があった。だからキャプションは一応「軍需から民生へ」と理解してよいのかもしれない。

ののちゃんのお父さんは、小さな貨物船のの受注と資材を調達する仕事をしているようである。同僚は名前から在日朝鮮韓国人のようである。しかし、実際には軍艦を(も)造っているのだ。『ののちゃん』は、その意味でも(他にも色々あるのだが)少し悲しいファンタジーであるように、私には思われた。

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トロ字?ゲバ字?:田原牧『人間の居場所』を読む

題名に惹かれて、田原牧『人間の居場所』(集英社新書)を読んだ。同じ「居場所」でも、私の願うところとは違っていて、でもどこか共感できる内容だった。こちらの勝手な解釈を押しつけるなら、田原は社会の(マルクーゼ的な)一次元化に対抗する多様性の現存を見出そうとするが、私はそうした多様性を容れる(上野千鶴子的な)「ハコ」を(福井康貴のように)「歴史の中に」見出したかったのである。もし私のいう「群衆の居場所」が一次元化の装置でしかないのなら、田原にとって私は敵でしかないのだが・・・。

田原の好みの言い方では私は彼女より「5学年下」なので、世代的に共感できることも多かった。もちろん秋元康の創り出す集合的アイドルの世界に「夕焼けニャンニャン」以来全く興味をもてないとか、三里塚は知っていても行こうと思ったことはないとか(山谷の越年闘争も誘われたけれど行かなかった)、近い世代だけにかえってはっきりズレることもある。

相変わらず細かいことが気になるのが私の悪い癖で、一箇所、トイレの落書きが「ゲバ字」で書かれていたという表現に引っかかった。ていねいに「ガリ版による政治ビラの字体」と注書きしてある。ああ、やはり「トロ字」でなくて「ゲバ字」なのか。つい最近、職場の同僚から同じ表現を聞いたとき、私は「『トロ字』と言っていたけど」と応えた。さらに、一橋出の同僚と「大学で違うのかねえ」と言い合ったのだ。

私が先輩から聞いた説明では「トロ字」の「トロ」はトロツキストのトロだった。これは正統派(代々木、あるいはスターリニスト)から見た「蔑称」だから、投げ与えられた蔑称をあえて自称とするという、屈折した表現だ。さらに先輩の説明では、正統派は印刷工に支えられているので(『太陽のない街』のように)「ガリを切る」(ロウ(古くはニカワ)が塗られた硫酸紙を鉄筆で削って原版を作ること)必要がないが、非正統派は自分でガリを切り、謄写版を1枚1枚刷り上げるしかない。その手作り感に運動の誇りと希望を懸けているということだった。かなり神話化された説明で、直截な「ゲバ字」に比べるとちょっとモリ過ぎかなと思う。

ここまで書いてきて、パソコン用の「ゲバ字」フォントってあるのかな、と思って検索してみた。最初に出てきたのは、たしかに「ゲバ字」らしい雰囲気を出していたが、ずっと美しく、字ではなくてフォントだった。というか、手書きでなければならない「トロ字」はフォントにはなり得ないのだった。

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余は如何にして左翼とならざりし乎:久しぶりに三番大教室を訪れて

15年ぶりくらいだろうか、久しぶりに学会の司会をやることになって、母校の建物を訪れた。学部3年から助手をやめるまでつごう8年間暮らしたので、すみずみまで懐かしいけれども、今回とりわけ懐かしかったのは旧三番大教室だ。今は「三友館」と言う名前になり、受付場所として使われていた。

思わず奥に進むと、昔私が入り浸っていた文学部学生自治会室は跡形もなくて、ただ監禁部屋のような「学友会室」という小部屋があるばかりだった。私たちが学生の頃は帝国大学以来の「学友会」は名前だけになっていて、戦後生まれの「学生自治会」さえ、風前の灯火だったが、今はどうなのだろう。

いろいろなことが思い出されてくる。委員長の国語学科の友人から「中筋の考えは代々木的過ぎだ」と批判されて、「代々木的」の意味が分からず悩んだこととか、学生大会の議長を2度務めたのだけれど(本業は会計担当の常務委員)、銀杏並木で宣伝していると、通りかかった法学部に進んだ高校の同級生が「そういうところ、お前のダメなところだよ」と言うので、何がダメなのか分からず悩んだこととか。同級生の女性が「中筋君に頼まれたら、しょうがないわよね」といって「議場委任」しれくれたこととか。冤罪被害者の免田栄さんを学園祭の講演に招いたが、スライド映写機(もう死語!)がタマ(電球)切れで、品川のエルモ社(今もあるのかしら?)まで汗だくで仕入れに行ったこととか。あの、若い私はどこに行ってしまったの?

少し関わっているメーリスにベビーシッターに関する大会運営の不備を批判する発言が相次いでいて、不備自体はたしかに問題だと思う反面、そうした発言にまったく共感できない自分をさびしく思っている。何で共感できないかというと、自分たちでやる/やらないという視点がそこに見出せないからだ。若い頃、子どもたちを預けている学童保育所の運営がたいへんだと先輩の女性研究者に愚痴ったら、「私たちの頃は公営なんてなかったから(ちなみにわが学童も名古屋名物民設民営!)、夏休みなんかお母さんが交替でやって大変だったのよ」と笑われた。年配者のお説教ではあったが、「なるほど自分たちでやるという選択肢もあるんだな」と納得した。逆に、私たちは事実上「自分たちでできないものはできない」でやってきたと思う。地域も職場も手厚くなく、半別居状態で、両方の親の支援もないから、そうするしかなかった。もちろんうまく行かなかったことも多く、ある時私が家族の病気を見捨てて学会に出向いたことは、今でも私たち家族全員の心の傷になっている。

いわゆる「自己責任」で得られたもの、得られなかったもの、子どもたちの幸せ、不幸せ、色々あったろうが、今となってはただそうする他なかったというしかない。一方で、自己責任の「先」にではなく、「前」に社会を問うべきだとは、今の私には考えられないのである。

あの自治会室の時間から今までを省みながら、「余は如何にして左翼とならざりし乎」、少し考えてみたい。

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わが学部のレガシーを送る:水野節夫先生の「最終講義」

長年社会人大学院で質的分析法の講義を担当してくださった水野節夫先生が今年度いっぱいで定年退職される。そこで自分の学部の演習を休講にして、最終回だけ出席させていただいた。ちなみに副題の「最終講義」は言い過ぎで、学部の講義は1月はじめまで続く。

この講義が始まる直前、水野先生は『事例分析への挑戦―’個人’現象への事例媒介的アプローチの試み―』(2000,東信堂)を出版され、そのきわめてオリジナルな「理論と方法」を世に問われた。中野卓先生に始まる日本社会学の生活史研究の第二世代のなかで、先生の立ち位置は孤高である。他の生活史研究者は、まず語りたい対象があって、それを正しく(どちらかというと倫理的に)捉えるための方法が後から練られる。悪く言えばドロナワ式の調査法だ。しかし水野先生は、(こちらは科学的に)正しい分析を実現するために、分析法自体を対象を通して練っていくのである。ただし副題に「’個人’現象」とあるように、本当は「現代社会における個人現象の社会心理学的解明」という、きわめて高度な理論命題が先生の研究には秘められている。方法における禁欲的科学主義と、理論における現代社会の存立構造への挑戦は、水野先生が学ばれた2人の師匠、折原浩先生と見田宗介先生の嫡系である証拠だ。

ご高著ではまだ「事例媒介的アプローチ」と控えめに呼ばれていたのが、20年を経た今では「CM(Case Mediated)法」とはっきりと銘打たれている。それは水野先生が留学中に師事されたA.ストラウスの「GT法」と対照されるもので、データから理論を引き出す前のデータとの出合い、対話を整えるための方法、理論が持ち込みがちな先入見や偏見から、データとの出合い、対話を解放するための方法なのである。

具体的には、それは「なぞり、なぞり返し」と「アイデアの風船飛ばし」の2つのプロセスから成る。前者はデータに出合う調査者の先入見や偏見を洗い落とすために、何度もデータを読み返すことであり、後者もまた調査者の先入見や偏見から自由になるために、アイデアを出し続けていくことである。ちょっと勉強した者なら、この柔らかなネーミングの向こうに、S.フロイトの「自由連想法」や川喜田二郎の「KJ法」の精神を見出すことができるだろう。

先生の熱弁を聴きながら、この方法が単に科学の方法に留まらず、人間論、人間関係論でもあることに、私は深く感銘を受けていた。私たちは、他者とりわけ愛する人に出合うときに、CM法のように出合っているだろうか。自分の欲望を満足させるために、他者を都合よく利用しているだけではないのか。そう考えるとき、水野先生の方法は、限りなくE.レヴィナスの他者の哲学に接近していくように思われたのである。

しかし、である。私にはまだ異論がある。水野先生の方法は、中井久夫風に喩えていうなら、帝国海軍軍令部の図上演習のときに、当時の参謀たちのように「わが皇軍は勝つことになっているのだ」といった最低、最悪の先入見、偏見から解放されるためのものだ。しかし目前の敵艦隊に夜襲をかける水雷戦隊の司令官はそうはいかない。自分の経験、手持ちの艦隊、水兵たちの練度など様々な状況に関する自らの主観的な見通しを通してのみ、目前の戦況は理解される。そうした主観的見通し、先入見や偏見以外の方法はないのだ。もしその方法に欠陥があるのなら、味方の艦や水兵たちを喪いながら、まさに血で贖って修正していく他ないのだ。私は水野先生の科目の前座に当たる科目で、古典的研究がそうした先入見や偏見を通して生産されていくプロセスを追体験できるような演習的授業を行ってきた。それはまさに、水野先生というレガシーとの個人的対話のなかで見出してきたものである。

講義の合間の雑談で、私はなぜかJ.デリダの『歓待について』の面白さを水野先生に語っていた。私はたぶんデリダの思考に、レヴィナス水野先生に対する自分の思考を重ね合わせていたにちがいない。

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社会科学の一平民:社会学的思考の基礎3

敬愛する年長の同僚から、「社会学は問題の発見に優れ、経済学は問題の分析に優れ、法学は問題の解決に優れているのだから、そのシリーズで連携できるといいね」と言われ、なるほど「社会政策科学科」の方針としてはその通りだと思いながら、一方でそれはきわめて(近代)経済学的な思考法だな、とも思った。

社会調査法の授業で毎年「主成分分析」と「因子分析」を教えるとき、両者のちがいをどう教えるか思案してきたが、要は、前者はH.ホテリングという優れた経済学者が考案し、後者はL.サーストンという優れた心理学者が考案したものだと考えるとすっきりするということに、今年になって気がづいた。つまり「主成分分析」がそうであるように、個々の現実的な要素を組み合わせて(加重平均的に足し上げて、あるいは分業して)最適解を出す、出せるはずだというのが、私の見るところ経済学的思考なのである。

しかし、その考え方は楽観的で私は好きだけれど、別の考え方もあろうかとも思う。まさに「因子分析」的に、どの社会科学にもまだ自覚されていないより根底的な思考があり、それこそが真の解決をもたらすのだとか、あるいはそれぞれが互いの弱点を突き合っているのだから、そこを「アウフヘーベン」したところに唯一の社会科学があり、それこそが真の解決をもたらすのだとか。上記の同僚は「社会学には哲学臭があるよね」とやんわりと批判していたが、こうした考え方はまさに「哲学臭く」、高田保馬のいう「社会科学の一平民」には相応しくない。しかし、「根底」や「唯一」でなくても、互いの見え方の偏りを批判し合うことは健全であると思うし、そうした批判精神を涵養する上では、仮に、あくまで「仮に」ではあるが、「根底」や「唯一」の立場に立ってみることも有用であると思う。

問題発見にジャーナリスティックな勘のない私としては、この「総合なき批判」に社会科学の一平民としての社会学の立ち位置を見出したい。やや代々木的ではあるが・・・。

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