試験監督の合間にぼんやりと:子どもの頃のわが町

期末試験の監督を一緒にやってくれる職員のNさん。監督中、私は生まれた町のことを思い出していた。彼の名前は私の家の前の酒屋さんの名前。

酒屋さんと言っても半分は呑み屋さんで(今どきは「角打ち」とかいうのだろう)、港の仕事が終わる4時過ぎから6時頃まで、オジさんたちが呑むというよりがやがやしゃべっていた。弱い紐帯!その足下に転がるビールや清酒の栓を、子どもの私は集めていた。

ときどき紙芝居屋が自転車に乗ってやってきて、私の家の前で商売していた。今気づくのだが、当然祖父母はその商売を黙認していたのだ。しかし山の手のお嬢さんだった母には我慢ならなかったのだろう。私が見るのは厳禁だった。私は窓から覗こうとしたが、紙芝居屋の背中しか見えなかった。

祖母の店のある商店街は関西風に「市場」と呼ばれていた。が、その続きに「商店街」もあった。第二次世界大戦前からの「市場」に入れてもらえなかった店が戦後に「商店街」を作ったのである。うちは戦後に「市場」に入れてもらったので隅から2番目だった。店の脇の横丁に二間あるかないかの履き物屋とホルモン焼き屋の屋台があったが、これも祖父母が商売を許していたのだろう。

思い出そうとしてもうちの店の周りですら記憶がおぼろで、「市場」全体はほとんど覚えていない。祖母が店をたたんだ後私も山の手に引っ越したので、祖父母の家を訪ねることはあっても「市場」に行くことはなかった。そして震災後の再開発で「市場」そのものが消滅した。

元の家業が青物仲買だったから八百屋で開業しようとしたのだが、既存店が猛反対して、買ってきたものを売る菓子屋になった。でも押しの強い曾祖母はやがて野菜を売り始めた。父が中学に入る頃には自転車で大阪の松屋町まで買い出しに行って、マンガまで売っていたそうだ。

そんなことを思い出しているうちに試験時間が終わった。写真は後で描いてみたうちの店の周り。

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一見さんお断り賛成:川端康成『古都』を読みながら

去年の今頃だったか、研究で読んだもののなかにある京都の料亭の名前があって、京都の料亭など今までも今からも無縁だろうが、なぜか興味を引かれて電話してみた。コロナだからフリの個人客でも受け入れてくれるかもなどと、相手の足下を見るような気持ちもあった。

応対の女性は非常にていねいに「やはりお連れさんがいらっしゃいませんと」と言う。「そうですよね」と私、分かっているならなぜ電話する(我ながら苦笑)。でも女性は「お日にちうかがって聞いて参ります」と。しばらくして「申し訳ありません。そのお日にちはあいにく大きなお茶事がございまして」「すみません。お手間を取らせました」

最近川端康成の『古都』を読んでいたら、その料亭が実名で出てきた。細かく描写されたその箇所を読んで、私はやはり断ってもらってよかった、とスッキリした気持ちになった。仮に無理に受け入れてくれたとしても、『古都』で読む限り、私は完全な招かざる客だ。オッサンが独り興味半分でうまいもんを食いに行く場所ではない。

いつか何かの縁で自然にそこの客になることがあるかもしれない。そのことを想像するだけで今の私は満腹である。

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上書きされる宗教:日光山輪王寺に初詣

家族で地元の神社への初詣だけでなく、東京で独りでもちょっと行ってみるかということで、去年は四半世紀ぶりに鹿島神宮に行ってみたが、今年はどうしようか。考えた挙げ句、東照宮なしの日光に行ってみることにした。「なしの」というのは、これまで行く度に東照宮(と大猷院)で終わっていたので、今回は輪王寺と二荒山神社に絞ろうと思ったのである。

もう1つ、研究上興味が湧いた小杉放菴の絵も見たかった。放菴の父は二荒山神社の神職で日光町長も務めた人物、なので記念の美術館がある。「研究上」というのは、放菴は未醒時代に小川芋銭とともに国木田独歩が編集するグラフ雑誌『近事画報』の挿絵画家だったが、この雑誌の日比谷焼打事件特集号『東亰騒擾画報』こそ、私の本の表紙なのである。もっとも放菴については山口昌男がずっと前に手を着けているので、今さら何か書く気はない。

輪王寺で面白かったのは、金堂内陣が延暦寺根本中堂と同じすり鉢状であるところだ。ただしそれは仏像を大きく見せる演出で、本家とは異なる。むしろ吉野金峯山寺に近い。もう1つ延暦寺と同じなのが「にない堂」(二つの堂が渡り廊下でつながっている)で、これも本家は常行(念仏修行用)、法華(法華経修行用)左右対称なのに対して、こちらは常行堂が倍くらい大きい。ただうれしいことに中が公開されていて、入ると五智に合わせて五体ある阿弥陀仏像の周りを念仏を唱えながら90日回り続ける修行の空間を体験することができる。また堂の片隅に守護神としてのマダラ神が祀ってあるのも面白い。絶対秘仏なので厨子の中身は分からないが。

マダラ神とは、輪王寺を確立した慈覚大師円仁が唐からの帰りに連れてきたもので、それ以来念仏の守護神らしいが、法然以降の浄土諸宗には受け継がれなかった。そりゃそうだろう、得体が知れないもの。

二荒山神社には山王権現も祀ってあって、やはり天台系である。ところが、ふと見ると弘法大師お手植えのコウヤマキが生えている。また二荒山神社から奥に進むと役小角を祀る行者堂を経て滝尾神社に至るが、ここも弘法大師が開いたことになっている。おやおやどうなっているの?

順序立てて言うと、役小角のような修験者で、空海とも交流した勝道上人が開いたのが正史なのだが、どこかで空海と混交したようなのだ。その後円仁がやってきて寺を確立したものの(平泉中尊寺や山寺立石寺も同じ)、円仁は日蓮聖人が非難したように天台を真言に接ぎ木してしまったので、それに連れて勝道が空海に置き換わったのかもしれない。

というように、東照宮を外してみると、日光は意外と日本仏教史を考える上で面白い場所だった。

写真は小杉放菴記念日光美術館の近くから見た日光の山々。左の男体山がオオクニヌシで後の峰々はその家族だそうである。

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アウェーの快楽:2回目のライブでの違和感

旧年中にはじめて聞いたアンビエント系のライブの2度目を聞いた。初回より聞き手の私だけでなく、演奏も熟れていて聞きやすかったが、終わった後なぜかちょっとがっかりした。演奏者が悪いのではない。私の質(たち)なのだ。

子どもの頃ピアノの先生に「中筋君は弾けば弾くほど悪くなる」と言われたことがある。もちろんワルター・ギーゼキングのように初見で完璧に弾ける天才ではない。間違えながら弾いている方が生き生きしていて、多少弾けるようになるとダレてしまうのだ。

今日のライブは演奏者の知り合いの客が多く、演奏者も「ホーム感」があると言っていた。それを聞いて私は、私に必要なのは「アウェー感」なのだなと思った。

ところでこの「アウェー」というネガティブな意味を含んだ言葉、いつから使われるようになったのだろう。子どもの頃プロ野球では「ビジター」と言っていたように思う。招待試合、いい言葉です。フーリガンが暴れ回るのとはおおちがい。ホームの暴力よりビジターへの礼儀。言ってみればここが私の思想の原点。磯村先生もそうだったよ。

本当はホームなんてアウェーの海に漂う木の葉のようなもんで、だから皆ホーム探しに躍起になるのだろう。でも私たちの生そのものが世界にとってアウェーなのではないかしらん。諸行無常。

https://twitter.com/hakogallery314/status/1612973939260813312?s=20&t=U57M0A7h0YSKlOesqhiGwg

 

 

 

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1925年冬の湯ヶ島:私の「研究余滴」

旧年中に『天上の花』という日本映画の新作を見た。原作は萩原葉子で、三好達治と彼女の叔母(つまり萩原朔太郎の妹)との結婚の破綻を描いたものだ。ひとことで言うとDVの話である。私は日本近代詩を知った頃からずっと三好を好まず、映画を見たのは吹越満演じる朔太郎のリアリティを確かめたかったからだった。それはさておき、東出昌大演じる三好は全く好ましからざる人物だった。

昨日ふと、原作読んだことがあったっけ、と思いつき、本棚の奥を探ると出てきた。しかし叔母の目線で書かれた小説の本文は読んでおらず、作者の目線で書かれた後日譚(映画では創作されたラストシーンでほのめかすだけ)だけを読んでいた。しかしそれでも読み飛ばしていた箇所に目が止まった。

「私の父と梶井基次郎氏(と三好)の三人が大正十五年の末に、この宿(伊豆湯ヶ島の湯川屋)に滞在したことがあるそうで」(と後年作者とその宿に泊まった三好が語った)

私の感想は「あれ、大正14年(1925)末じゃね?」である。なぜなら

「さよう、梶井さんが見えたのは大正15年(1926)の元旦のことで、それから一年と三ヵ月おられました」という証言を読んだことがあるからだ。出典は『服部之総全集23 私のなかの歴史』所収の「三十年」(初出は1953年の日教組新聞!)。そこで服部は梶井や川端と過ごした日々を湯川屋の主人と懐かしんでいる。服部と梶井は三高でクラスメート(大宅壮一、喜多野清一も)。川端はなぜか服部につきまとわれ、前年の年末年始(服部の卒業年)も湯ヶ島で川端と過ごしている。1年前に卒業していた川端はそこで『伊豆の踊子』の仕上げにかかっていた。オジャマムシだな、服部。いや、二人が晩年の鎌倉生活に至るまで親友だったことは誰もあまり書かない。

少しずつ調べを進めている「東京から片道4時間のセクシャリティ」と、昔読んだ本がここでつながった。ちなみにウィキペディアによると梶井が湯ヶ島に来たのは昭和元年1926年末、三好が訪ねたのは昭和二年(1927)8月で、それは卒論執筆のためで、朔太郎も6月と8月の二度訪れたようだ。服部の記述と微妙にずれている。念のために4人の生年を記すと、川端1899年、三好1900年、梶井1901年(早生まれ)、服部1901年である。色々あって三好が一番学歴上の後輩になっている。

私が三好を好ましく思わないのは、映画に描かれた抑圧的な暴力性にも関わるが、何より彼が詩という生理(朔太郎のいう)を秀才的知性で支配しようとするところである。同じ秀才でも、支配できずに生活の巨人室生犀星の前で自爆した中野重治(1902年早生まれ)とはちがう。ここで「東京から片道4時間のセクシャリティ」のテーマは去年の今頃取り組んでいた「東京学派」(東大の近代日本の知識史へのインパクト)のテーマにつながってくるのだ。

途中経過報告でした。

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地域アート巡礼の区切り:市川湖畔美術館「試展―白州模写」を見る

朝早くめじろ台の下宿を出て電車を何度か乗り継いで4時間、千葉県の真ん中辺りのダム湖畔にある市原湖畔美術館に着いた。舞踏家の田中泯を中心として1989年から開催されていた白州アートキャンプを回顧する「試展―白州模写」を見るためである。

私はまったくこのイベントを知らなかった。当時祖父が買っていた『太陽』に載っていたにちがいないが、興味を引かなかったのだろう。たまたま昨年末に新聞記事で知って、正月明けの知能の慣らし運転がてら出かけてみた。

これも来るまで知らなかったのだが、この美術館の館長は旧年中巡った越後妻有や瀬戸内国際で知られるアートディレクター北川フラムである。展示を見てなるほどと思う。白州には彼の「地域アート」の原点がある。私には、それは70年代の学生叛乱が生んだ共同体主義が80年代バブルのカネの力でアートとして弾けて、さらに21世紀には地域活性化のビジネスになったように見える。ただし『図録』では、北川も白州の動きを当時まったく知らなかったと言っている。つまりそれは時代の流れだったのである。

「バブルのカネの力」と当てずっぽうで書いたが、『図録』をみると、地元企業の(笑)サントリーが700万(!)出してくれたそうである。さらにあの下河辺淳がバックについていたというから驚きだ。戦後のエリート官僚の典型の1人である下河辺がこんなことにまで手を出していたとはそら恐ろしい。そういえば昔彼が音頭を取った上流文化研究所というのに一口だけ噛んでいたな(苦笑)。

ゴッホの絵がいくらで売れようと、くだらん環境運動家がトマトスープをかけようと、ゴッホの絵は誰も描けない唯一無二のもの。見れば上手とか下手とか関係なく、ゴッホの心と対面するしかない。しかし、地域アートのさまざまな思惑の玉ねぎの皮を剝いた後に何が残るのか、私は大いに疑問である。その疑問を宿題にして、この間の北川フラム巡礼を終えようと思う。

千葉まで来たついでに千葉県美術館の江口寿史展「彼女」も覗いてみた。当時から感心しなかったが今見てもまったく感心しない。ただバブルの空しさを感じるだけだった。

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新年のごあいさつ:と言いつつ話題は旧年を引っぱる

あけましておめでとうございます。

旧年中に見た豊田四郎監督『雪国』、一番ケッサクだったのは、原作にもあるシーン。駒子と島村が一緒に内湯に入ろうと男湯の脱衣所にいると別の男客が入ってくる。「あっ、失礼しました」と男客。これが千田是也、近代日本演劇のレジェンド!。ごく短いシーンだが軽みがあって嫌味はなく、実に上手い。

本当は原作の設定からすれば、島村はすらっとした池辺良ではなく小太りで色白の千田是也の方が合っているけれど、興行上そうもいかなかったろう。

もう1点、昭和の名バアさん女優の競演も見どころ。仲居の浪花千栄子、あんまの千石規子、師匠の三好栄子、駒子の母の浦辺粂子。いや、オッサンやバアさんじゃなくて美女見ろよ。

今年もよろしくお願いいたします。

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2022年の終わりに:来年の抱負?

先日月一の精神科通院で医師から来年の抱負を聞かれ、「再来春の在外研究準備でしょうか」と答えたら、「ぜひそれで行きましょう」と励ましてくださった。在外研究、当たるかどうか分からないが、とにかくありがたいことである。

それはそれとして年の瀬とうとう頭がダウンして、昨日は一日撮りだめしたテレビ録画をぼんやり見ていた。そのなかで豊田四郎監督の『雪国』(1957,東宝)を見始めたら、冒頭からテツの血湧き肉躍る、第二次大戦後早くの上越線の鉄道風景が(原作からして当たり前、ただし原作は戦前)。「駅長さあああん」と車窓から八千草薫が叫ぶ。その列車の先頭から黒煙が上がっている。これは私ははじめて見る「暖房車」だ。旧型電気機関車が暖房を供給できないので、客車編成と間に暖房用蒸気を作る車両を挟んだのである。一方越後湯沢に着くシーンでは黒煙は上がっていない。撮される電気機関車がEF12からEF57に代わったためで、後者は蒸気暖房装置を内蔵していた(テツ的解説、10番台がSLでいうとD、本来は貨物用。50番代がSLでいうとC、本来は旅客用)。ちなみに原作のままなら輸入車のEF51かな。いや、機関車見ずに美女見ろよ。

後に不老の美女と謳われた葉子役の八千草はまだちっちゃな娘さんで、駒子の岸惠子が実に美しい。どこがって、うーん、足首とか襟足とか、いけませんねえ。川端と同じジジイ趣味。

実は6年前、このブログに次のように書いた(容量オーバーで消去してしまったが)。

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昔の日本近代文学だと、国境の長いトンネルを電気機関車で抜けると雪国で、個性的な芸者と腐れ縁になったり、高原の別荘地にアプト式鉄道で登ると肺病やみの美少女がサナトリウムにいて、生と死について考えたりするのだが(こちらは2作品がごっちゃ)、東海道新幹線で新丹那トンネルを抜けても三島駅で、富士山が見えるだけで何もありゃしない。 何を考えているかというと、新幹線のセクシャリティということを考えているのである。『雪国』と『風立ちぬ』は同世代で同じ東大国文科出の作家が、同じ軍国主義と共産党の時代に書いた、まるで双子のような小説で、国際的な評価も高い。フェミニズム批評からはどっちにしろつまらない男の自慰文学ということになるだろうが、たとえそうだとしてもその欲望のかたち、セクシャリティの現れ方が面白い。とくにどちらも列車に乗って東京から半日くらいのところに欲望があるというのが面白い。たとえばやはり同世代の、しかし学歴は天と地ほどもちがう女の林芙美子はそうは欲望を描かないのではないか。『浮雲』もやはり上越線方面の温泉に行っていたような気がするが(成瀬巳喜男の映画の印象)、そこへ行く、通うことが本質ではない。

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このテーマ、ずっと考えたいと思っていた。来年はこれをやってみよう。まず髙半に泊まってみたいな(そこからかよ!)。

今年も読んでくださってありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

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反・典座教訓:家の宗教に逆らって

先日、食いしん坊の師匠が曹洞宗の精進料理のことをSNSに書かれたので、「曹洞宗はパス」と思わず書き込んでしまった。師匠もそうだそうだが、わが家の宗教も曹洞宗である。

中坊の頃、法要の席で偉い(らしい)坊さんに「そんな姿勢の悪いことで東大なんか行けるか」と怒鳴られたことがある。臨済以来殴る(打つ)怒鳴る(喝)が禅の基本と知った今はそうされてもどうってことないが、その時は無性に腹が立って以来まじめに法要に出る気がなくなった。だいたい灘中生という頭の知識だけで怒鳴る坊主が悪い。おかげで東大なんか行っちゃったじゃないか。姿勢は今も悪い。

そんな私が道元にはじめて興味を覚えたのは、高校生の頃稲垣足穂を知り、読んでいくうちに道元の便所作法について書いたものに出合ったときである。足穂は例によって肛門愛の理念型として称揚していたが、それとは別に、ここまで日常生活の細部に偏執する知性を面白いと思った。仏性とは何の関係ないけれど。

「典座教訓」だって同じこと。面白いけれど仏性と何の関係があるのだか。それ以上に何かと抑圧的なところが気に食わない。無理してんなと思う。美味しいものは我を忘れて食べればいいんじゃないか。

同じ精進料理でも、黄檗宗の普茶料理はそうしたところがないので気が楽だ。食べる楽しみを失わず、かつそこから想像力が世界につながる余地を残している。やっぱり食うことは中国に敵わないな。

撮りだめしていたNHKBSの曹洞宗の精進料理の番組を見て、あらためてそう思った。粥の匙の裏にすり胡麻つけて食べるなんて、せせこましいことやめましょうよ。道元さん。

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2つの「ちりふ」神社:愛知県は面白い!

住んでもう20年になろうとする名古屋、愛知県だと25年。京都や奈良とはいかないが、熱田神宮や大須観音だけでなく、けっこう面白い史跡や寺社がある。

今回紹介するのは知立神社、名鉄知立駅から歩いて10分くらい。何が面白いってご祭神が「ウガヤフキアエズノミコト」、誰それ?。山幸彦の息子で神武天皇のお父さん。いやそれ以上にお母さんがワニ(鮫)!それも八尋の。トヨタマヒメ、ちゃんと本殿の傍らに祀られている。ウガヤムニャムニャを宮崎の鵜戸神宮以外に祀る神社は珍しいのではないか。なぜそうなのかは神道素人の私には分からない。江戸時代に池鯉鮒と書いただけあって、社前の池には美しいワニ、ではなくて錦鯉が。

さらに面白いのは、そこからかなり離れた知多半島の富貴というところに「知里付神社」があって、ご祭神はスクナビコナである。オオクニヌシの国造りを手伝いに来たのに、ちっちゃ!とオオクニヌシに馬鹿にされた苦労人。アホなオオクニヌシがその真価を知ったときには、もうガガブネに乗って常世の国へ。泣ける~。こちらの傍らには浦島太郎が祀られている。地元では衣浦湾のどこかに竜宮があると信じられていたようで、その点で衣浦湾を挟んだ2つの神社はつながるのである。

知立神社に戻ると、ここには例の多宝塔がある。慈覚大師円仁が創建した神宮寺のもので、今は寺はなく、塔は室町期の再建だが重文である。多宝塔も愛知県には多い。重文が7つ。先に紹介した尾張四観音(笠寺、荒子、龍泉寺、甚目寺)も甚目寺の三重塔以外は多宝塔。なかなか侮れないでしょう、愛知県。

知立駅、前の世紀の終わり頃はホームに立ち飲み屋があって夕暮れ時には風情抜群だった。駅前のロータリーには工場の送迎バスがひっきりなし。地味だがまさにものづくりあいちの中央駅だった。高架になるとそうした風情も失われるだろうな。

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