あてのないフィールドワーク:明治憲法起草地記念碑を訪れる

今日は大学が体育祭で休講なので、前から気になっていた横須賀市の夏島(なつじま)に行ってみることにした。バスが朝晩しかないようなので早起きして京急追浜駅に着くと、乗り場が素人には分からない。工場の通勤専用なのである。追浜と言えば日産また住友造船(旧浦賀船渠)。発車間際のバスにあわてて乗ったら工場の構内行きで、守衛さんににらまれた。ごめんなさい。

でも日産で働く人を見られてよかった。どこかトヨタと違う感じがする。どこがって、それが言えたら産業社会学者になってますがな。バスの終点から少し戻ったところに目的地の「明治憲法起草地記念碑」はあった。あったのはいいが実際の春畝公伊藤博文の夏島別荘は工場造成時に均されて跡形もなく、仕方なく道路脇に移転したらしい。明治と昭和の対照を象徴するような話だ。もっとも伊藤はここではなく、今明治記念館になっている赤坂仮御所御会食所の建物が本審議の場所だったので、それを自分の別荘を移した隣の野島に持って来て記念館にしたかったらしい。でもできなかった。意外とわびしい扱いの帝国憲法。

産業道路を日産、住友とちがう従業員満載のバスが通っていく。「海洋研究開発機構」行き、ええっ、私の愛する「ちきゅう」の所属する独法じゃん。そんなに人働いてんの?帰って調べるとなんかいっぱい水槽があるらしい。職員数は全体で900人と書いてあるのでそれほどでもなかった。まあ900人は正規が、ということだろうけど。

でももっと驚いたのは設立が経団連の要望だったことと1971年だったことだ。まさに『日本沈没』、顔が広く鼻のいい小松左京はそうしたことも踏まえて書いたにちがいない。しかし何で経団連?大陸棚資源、ということは尖閣ですね。うわー、キナ臭く、バタ(アメリカ)臭い。だってオイルショックの直前でしょ。私がブン屋なら一冊書くな。

右は野島に復元された伊藤別荘、山口県萩に移された大井別邸もそうだったが、春畝公の人柄をうかがわせるスカスカで明るい建物である。なんせ3畳の茶室は女中部屋兼用。神経質な山縣にゃあとてもできません。

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「怪しい隣人」補遺:脇村義太郎『回想九十年』を読む

先に「怪しい隣人」という題で、農村社会学の先人喜多野清一と生態学の巨人南方熊楠がお隣さんだったという話を書いた。その訪問で乗り降りした紀伊田辺駅で、郷土の偉人として喜多野ではなく商業史家の脇村義太郎が顕彰されていることに気づいた。帰って調べると、脇村は喜多野と同級らしい。でも、ながく非常勤暮らしが続いた「負け犬」喜多野とちがい、人民戦線事件でクビになるまでは東大出世街道をばく進し、戦後復帰した後も学士院長まで上り詰めた「勝ち組」脇村のことを調べる気にならなかったのである。

しかしやはり好奇心には勝てない。図書館で回想録『回想九十年』(1991,岩波書店)を借りてきた。これがむやみに面白い!。彼の本は学生時代に『東西書肆街考』(1979,岩波新書)を読んだことがあるのだが、都市論として読んでいたのでつまらなかった。しかし都市論ではなかった。歴史家の史料収集論なのである。日本の商業史の草分けとして、また一代の富商である父譲りの絵画コレクターとして、国内外の商業史料を手当たり次第に鑑定し、値切り、買い漁る話なのである。

さらに三・一五事件からコムアカデミー事件に至る東大マルクス主義経済学者への思想弾圧の内側を、歴史家の目で詳細に証言する。三太郎(山田義、大森義、平野義)のマルクス主義の体温差の描き方など、唸らされる。後世の継承者たちが「日本資本主義論争」と神話化したのとは全く異なる、実に人間臭い歴史が描かれている。たとえば土屋喬雄と向坂逸郎は本を全部渋澤敬三のツケで買っていたとか。

ちょっと面白かったのは、羽仁五郎は実に好意的に描くのに服部之総にはひとことも触れないところだ。三高で一年下だから知っているはずだが、たぶん生理的に嫌いだったのだろう。

肝心の喜多野については、小中同級で国立大学教授になったのは喜多野と私だけであること、三高受験の時に一高は無理そうだからと相談して一緒に三高を受けたこと、喜多野が三高時代に病気で一年留年したことだけを記している。小さな町の幼馴染みではあっても次第に交流が薄くなったのだろう。嫌な服部や大宅壮一とつるんでいるのも嫌だったのだろう。

一方「怪しい隣人」南方熊楠については、父親は南方を大嫌いだったが、父親の弟のお嫁さんになった人に結婚前の南方が惚れていたという話を記している。「怪しい隣人」は町の人気者だったのだ。

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ゴールデンカムイの裏側:北海道旅行拾遺3

空港バスのいい便がなくて、旭川空港から川村カ子トアイヌ記念館までタクシーを使ってしまった。大枚叩いたが早く着き過ぎて、さらに計画では帰りは近文駅まで歩くつもりだったのを旭川駅までバスで戻ることにしたので、時間が余った。どうしよう。ふと帝国陸軍第七師団の跡地を見てみようという気になった。スマホで検索すると跡地どころか、陸上自衛隊第2師団直営の「北鎮記念館」というのがあるらしい。歩いて訪れると日曜なのでけっこう盛況で、退役(?)自衛官が家族連れの客に大声で展示を説明していた。客は全員マンガ『ゴールデンカムイ』のファンのようだった。作者の色紙も飾ってあった。

しかしあまり戦史に詳しくない私は、展示を見て凍り付いてしまった。第七師団は屯田兵団を起源とし、第二十五、第二十六、二十七、二十八連隊が主たる構成兵団である。南樺太警備に分けられた二十五連隊を除く3個連隊はシベリア出兵と関東軍への交代駐劄を経験し、その先のノモンハンで 壊滅的敗北を経験した。さらに二十六連隊の一部は「北海支隊」としてアッツ島で、二十八連隊の一部は連隊長一木清直大佐の「一木支隊」としてガダルカナル島で全滅した。樺太の二十五連隊も1945年8月15日以降もソ連軍と戦ったのである。もちろん軍史の長い線の上では惨劇は点である。しかしその血塗られた点は限りなく大きい。

勇ましい声で旧軍の規律と勇気を語る退役自衛官の横を、私は逃げるようにすり抜けた。

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すべての人びとは姉妹兄弟となる:「第九のきせき」展を見る

いつも通り合唱と管弦楽の全奏が「よろこびよ、それは神々の火花」と歌い上げた後、合唱は沈黙し、加速した管弦楽が神々の火花を象徴して曲が終わるはずが、白い手袋をした子どもたちの一団が管弦楽の奥で最後まで手話で「火花」をいっしんに示し続けている。それを見て、ふいに涙腺が緩んだ。そうだよ。それは神々の火花じゃないよ、人間の火花だよ。泣。

新聞でたまたま目にした「第九のきせき」展(ダイアローグ・ダイバーシティミュージアム。芝の四季劇場の1階)。聴覚障がいの子どもたちが歓喜の歌を自分たちで手話に訳し、手話で唱う姿を撮った写真展である。他の障がいを持ち声で唱う組もあって、全体にインクルーシブな芸術活動となっている。

最初の部屋で、よろこびを手話で表す男の子の写真に引き込まれる。ベートーベンは「このような音ではない」と言ったが、それは言葉も含めてのものだ。ここに彼が求めた音がある。

次に心動かされたのは、2コーラス目の終わり「友を持つよろこびを享受できないものは泣いてこの輪から立ち去れ」だ。私はこの差別的な言辞こそ、この曲最大の難所だとつねづね思っていたが、子どもたちは「去れ」の手話を、他人にではなく自分に向けていた。自分の中の傲慢や怯懦に。これできませんよ、普通。

そして、見終わって出たロビーに流されていた実際の演奏が冒頭の引用である。皮肉なことに、独唱の4人と指揮者が道化にしか見えない。下手とか言うのではない。合唱や管弦楽を率いるように唱い、振るのが、いっしんに手と身体で歌っている子どもたちの前では実に空虚に見えるのだ。だって歌詞や楽譜をなぞっているだけでしょ。よろこびって何だろうって心の底から考えて歌っていない。

フルトヴェングラーよりトスカニーニより、いい第九を聞いた。いつか私も手話でかどうかは分からないが、その輪の一人となって歌いたい。

https://www.youtube.com/watch?v=qxoZJIP8YWA

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結節機関説批判:北海道旅行拾遺2

恩根内市街地を実際に訪れた感想として、「都市とは社会的交流の結節の集積である」という鈴木栄太郎の理論(結節機関説)は破綻していると記した。とくにそう感じたのは次の2つの施設を見たときである。

左の写真の施設はNTTの固定電話交換施設だろう。もちろん無人の機械である。約70年前の『原理』には電業所と記されている。公務員のいる電報取次所だったのだろう(おぼろげな記憶ではかつて郵便局や駅でも電報を取り扱っていたような気がするが(電報取扱所の看板)、あまりに幼い頃の記憶なので全く確かでない)。つまり結節機関はあくまで機関でしかなく、人と社会を伴わなくても成り立つ。現在の恩根内では駅も消防屯所も無人だ。いっぽう郵便局と駐在所には人がいるが、それは厳密な意味での住民ではないだろう。鈴木の都市社会学は、結節機関を支える人びとの生活を「正常人口の正常生活」と呼んで、理論のもう1つの柱とするのだが、その結びつきはまったく安定したものではなかった。

中の写真の施設は浄土真宗寺院と門柱に記されているが、今残るのは墓石の列と「納骨堂」(観音堂ではない)だけである。『原理』には寺2軒、天理教会、神社各1軒と記されている。当時は本堂も庫裡もあったのだろうか(音威子府の市街地には真宗と真言宗の寺院があって、どちらも本堂と庫裡を一体にした建物だった)。私が気になるのは、こうした宗教施設に対する鈴木の理論的冷淡さである。駅や集乳所よりもこちらの方がムラびとにとって重要かつ身近な結節機関(本願寺と門徒を結ぶ)ではなかっただろうか。

私の乏しい知識では、明治維新後の本願寺(と他の仏教教団)は江戸幕府との癒着が裏目に出て宗門の危機に瀕した。それを天皇家との通婚と未開地への布教で挽回しようとした。北海道は格好の草刈り場だったはずだ。それは塚本哲人の調査した第二次世界大戦後のブラジルの入植地も同じで、こちらは創価学会の草刈り場となったのである。いや、入植者一人ひとりの立場に立てば、それは「機関」などではなく、生き死にの意義に関わる深刻な「場所」だったはずだ。

山田洋次監督の傑作『家族』(1970,松竹)は、長崎の炭鉱夫の家族が北海道根釧原野に入植する物語だが、笠智衆演じる祖父が深い満足のうちに死に、入植した大地に、旅の途中で死んだ子どもの遺骨とともにカトリック式で土葬されるシーンがクライマックスである。葬式組を演じるのは実際に長崎から入植した人びとで、彼女ら彼らの信仰の深さがスクリーンから滲み出る。

おそらく恩根内でも、入植の苦労の果ての死を小さな寺が受けとめていたのだろう。そして死後の幸福(浄土)を遠く京都の本願寺が預定してくれていたのだろう。これこそ結節機関というべきではないか。しかし入植地の消長につれて、小さな寺は無人の墓地と納骨堂に成り果てた。結節機関は社会の機能である以上に生きられた歴史の産物だったのだ。

ちょっと深刻な話になり過ぎた。右の写真は廃校になった小学校のプール。今は子どもたちではなくチョウザメが泳いでいるそうである。

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米作の北限:北海道旅行拾遺1

昔の読書の追憶に浸るだけが旅行ではない。車窓からだけではあるが、移りゆく景色は色々なことを教えてくれる。

特急サロベツ号が旭川駅を出ると、私は旭岳の前に広がる、田植え直前の水を満々と湛えた水田に目を奪われた。本州の構造改善事業で造られた30アール田より遙かに広い。早乙女が一列になって唱いながら田植えといった『七人の侍』的風景を想像することもできないくらいの茫漠たる風景だ。私が小学校で習った北海道の稲作の北限は札幌のちょっと北ぐらいで、それもほとんど不作で質も悪いのに無理して作っているということだった。大学生の頃、鳴り物入りで売り出した「きらら397」の不味かったこと。

昔の小説で有名な塩狩峠の手前までかなと思ったが、塩狩峠を超えて名寄盆地に下りても水田また水田である。ジャガイモの作付け前よりも(カルビーの専用倉庫があった)萌え出でたばかりの春小麦もより多い。雪解け水で満杯の天塩川に沿ってどこまでも水田は続いていく。だんだん不安になってきた。まさか今日の目的地、美深町恩根内まで・・・。

恩根内の1つ手前の初野駅でとうとうそれは途切れた。しかし美深といえば1931年に零下41.5度を記録した日本のオイミヤコンである。そこで水田とは。それよりもそんなに米を作っていったい誰が食べるのだ。みんな朝晩ご飯食べてる?

右の写真は音威子府駅そばの雪捨て場。まだたくさん溶け残っている。

 

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空知川の岸辺:『日本近代文学の起源』の猿マネ?

今回の北海道旅行のもう1つの目的地は「旧空知太駅跡」である。開拓使の炭鉱鉄道が札幌旭川間の都市間交通に発展する直前、札幌から延びた鉄路は石狩支流の空知川に阻まれてこの駅で止まった。旭川から延びてきた鉄路と結ばれる間の6年間だけの駅だった。そこに1895年9月に降り立ったのが、柄谷行人のいう「日本近代文学の起源」、独歩国木田哲夫である。

高校3年生の夏、国語教師だった叔母からもらった河出書店版の国木田独歩集(1952年刊)になぜか耽溺した。なかでも「空知川の岸辺」は何度も読み返した。北海道開拓を夢見た若い独歩の旅行記である。もちろん柄谷行人も彼の著書もまったく知らなかった。

「汽車は粛條たる一駅に着いて運転を止めたので余も下りると此列車より出た客は二十人位に過ぎざるを見た、汽車は此處より引返すのである。(中略)長く響いた気笛が森林に反響して脈々として遠く消え失せた時、寂然として言ふ可からざる静けさに此孤島(駅のこと)は還った。」

空知太の探索は空振りで、独歩は砂川駅まで戻って当時本線だった旧歌志内駅に進み、さらにそこから峠を越えて現在の根室本線茂尻駅付近に達した。調べると歌志内にも茂尻にも独歩碑があるようだが、今回は時間が(いや汽車の本数が)なくてそこまでは行けなかった。結局独歩の開拓の夢は有島武郎の父のようには実らず、夢のままに終わったのである。

滝川駅から徒歩で片道1時間弱、天気は良いが川沿いは冷風が吹き荒れ、北海道の広さと寒さを体感した。帰りに昼飯をと思い、検索すると何とあの「松尾ジンギスカン」の本店が。肉を焼いていては東京に戻れないので、本店限定のスープカレーで昼食。北海道ということでつい飲めないビールを飲んだら、酔っ払って老眼鏡を置き忘れた(泣)。

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最初で最小の都市:日本農村社会学の聖地巡礼最終回

「日本農村社会学の聖地巡礼」最終回は、北海道美深町恩根内、通称「恩根内市街地」である。鈴木栄太郎『都市社会学原理 初版』(1957,有斐閣)に登場する、最初で最小の都市である。25年前にこの旅をはじめたときから、最終回はここと決めていた。思えば長い旅だった。

25年前の最初の訪問地も『原理』に由来する青森県西目屋村大秋(たいあき)だった。これだけ鈴木栄太郎にこだわれば、「君は鈴木栄太郎を読んでいない」と院試で叱った富永健一先生もあの世で了としてくださるだろう。

旭川から特急と普通を乗り継いで約3時間、宗谷(本)線(今は本が取られた)恩根内駅は去年廃止される予定だったが、地元の反対で辛うじて残された。代替バスやレンタカーで訪れることもできたが、やはり「結節機関」である鉄道で降り立ってみたかった。

戦後京城帝大から引き揚げた後CIE(連合軍教育文化局)に雇われていた鈴木は、戸田貞三の東大社会学帝国主義戦略に従って北海道大学に赴任した。が、元来病弱のためほとんど調査はせず、講義も休みがちだったようだ。それでも学生たちに調査させた記録を踏まえた10年間の講義録をまとめて『原理』を書き上げた。もっとも前著の『日本農村社会学原理』も学生の調査記録と柳田国男が編んだ資料集に基づいているから、健康だったとしても調査そのものを好いてはいなかったのだと思う。

『原理』で鈴木は、助手の塚本哲人(東大社会学の付家老)が調べたブラジルの日系移民の入植地と恩根内市街地を事例に、都市という社会の最小条件を描き出す。駅や郵便局や集乳所など、それらは家々を国家につなぐ「社会的交流の結節機関」であり、その集積が都市なのだ。

21世紀の今、こうした鈴木の理論はブラジルにしろ北海道にしろ、先住民社会を無視する点で(オンネナイは日本語ではない)機能主義社会学の致命的欠陥を露呈している。その上、訪れて得心したのは、身体や生活といった具体に基礎づけられない社会理論は結局破産する他ないことだ。今や廃墟となった恩根内市街地のように。私はもう鈴木を読み返さないだろう。

こんにち、先住民たるアイヌ民族を入れずに北海道を語ることはよほどの馬鹿でなければできないことだ。というわけで、限られた時間ではあったが、恩根内の前に(官のウポポイではなく)民の川村カ子トアイヌ記念館にも立ち寄ったのである。

 

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超音速の夫婦善哉:特撮美術監督井上泰幸展を見る

超音速の夫婦善哉、ではなくて特撮美術監督井上泰幸展を東京都現代美術館に見に行った。先に見た友人の評通りの充実ぶりで、見ている間ずっと頭の中に伊福部マーチが鳴り響いていた。みんなよく落ち着いて見ていられるなあ。

一番感心したのはフランケンシュタインの成長(笑)に合わせてセットの縮尺を変えるための「香盤表」という図表。シーンに合わせて縮尺を変えることは知っていたが、成長しないスーツアクター(?)ゆえにセットの方を変えるのは知らなかった。初期の図が尺計算になっているところも奥ゆかしい。

その前に、この美術館でボランティアガイドをやっている中高時代の友人とたぶん卒業以来の再会、特別にコレクション展を案内してもらった。さすがの簡にして要を得た案内で、ものすごく楽しく、 勉強になった。彼も言っていたが、中学1年で同じ教室で学んで以来(たぶん私が一番背が高く、二番目が彼だった)40年、こんなかたちで再会しようとは、神ならぬ身の知る由もなかったよ。お互い容貌魁偉なので年経ても見違えない。

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町中華で昼ごはん:横浜の街角で

昼どきお腹が空いてきて、ちょうど中華料理の紅い看板や暖簾が目に入れば言うことはない。ところが当節これがたいへん難しい。テレビ番組になるくらい、町の中華料理店が減っているからだ。

しかしそこは横浜。そこはかとなく期待はしていたが、ザ・町中華といえる店に出合った。店内には真っ赤な板に黒字で縦書きの品書き。チャーハン、ラーメン類、炒め物定食、終わり(この店はカレーライスもあり)。もちろん横浜なのでサンマーメン(肉モヤシ炒めが載ったラーメン)はある。出てきたサンマーメンの細くてまっすぐな麺をたぐるとフワッとあの匂いが。子どもの頃中華料理店で汁麺を食べるとき、あるいは町の中華料理店から漏れる湯気を吸うときの匂い。ラーメン屋ではない中華料理屋の汁麺の匂い。

客は皆男1人か2人連れで、行列はないが席はつねに埋まっている。奥で主人が中華鍋を揺する音が途切れない。すごく美味しいというのではないが、こうした場所がなくなっていくことへの不安が、町中華ブームや孤独のグルメブームの背景にあるのだろう。

いや、今日の目的は右の写真、「、」(読点)の打ち方を学び直しに来ました。僕の文章は打ち過ぎですね。

 

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