天職について:松本俊彦『誰がために医者はいる』を読む

アカデミックな専門家を看板にメディアで活躍する人は多いが、話をまじめに聞こうと思う人は私には少ない。スポットライトへの嫉妬もあるし、紋切り型の物語の語り手でしかないことへのいら立ちもある。そのなかで、いつも耳を傾ける同世代の専門家は、精神科医の松本俊彦氏と考古学者の千田嘉博氏である。その松本氏のエッセー『誰がために医者はいる』(みすず書房)を読んだ。

お二人を信頼し、またうらやましく思うのは、専門こそ違え、それぞれ自分の仕事に愛と誠実を持って取り組まれ、またその仕事を妨害する世間(たとえば郷土の文化財を票の道具にしか考えない下劣な政治家)と嫌がらず、阿らずに付き合い、さらに職場の組織上の業務も逃げずに引き受けられているからだ。そうした意味でお二人は仕事を天職としていると言えるだろう。さらにメディアへの露出は時間的にも無理があるし、メディアスターとアカデミシャンとは本質的に矛盾するが、お二人はけっしてメディアに魂を売らない。それもまたお二人の仕事が天職だからだろう。

松本氏の名を知ったのは、皮肉なことに彼が強く反対する「ダメ。ゼッタイ。」キャンペーンの担い手になるハメになったからだった。その業務を通して彼の名とダルクを知り、そのプロセスをよく知りたいと思ったが、業務上の私は結局「ダメ。ゼッタイ。」と不良学生を追い回すことしか許されず、彼らの更正復帰のプロセスは後任の教育学者に攫われてしまった。その結果、私の中で後戻りの効かない崩壊が生じて、私は私の仕事を天職だと思えなくなってしまった。それまではいつかそうなれると思っていたのだが。

必ずしも穏やかな出合いではない患者から学び、自分の治療と知識を深めていく松本氏の職業人生を、私は苦い思いで読んでいる。私はもともと学生との付き合いが苦手で、今や全く無理になってしまった。もちろん仕事上定められた教育(実に低レベルなものだが)はするが、それが自分を深めているとも、そもそも自分が深まっていくとも思えない。心のどこかで、「早くクビにしてくれ、お払い箱にしてくれ」という声がいつも聞こえる。

この本ではアルコールや向精神薬への依存の問題がていねいに論じられているが、これも私には親しい事柄である。向精神薬が効いてスッキリという経験はなかったが、美味い酒、楽しい酩酊の記憶はたくさんある。しかしそれはほんとうは何だったんだろう。それに仕事。これも若い頃にはうまくいった、楽しかったという記憶があるが、それもほんとうは何だったんだろう。

冒頭のお二人に戻ると、私は実に下劣な読み方をしていて、奥付を見ればお二人は東大出でも洋行帰りでもない。私の世代の出世したアカデミシャンはちょうど東大出から洋行帰りの移行期にあったように思う。私は東大出だが洋行帰りで箔をつけることはできなかった。しかしそんなことはよい仕事、天職とは何の関係もない。今頃それに気がついてももう遅い。もっと早く、小学生のときに気づいていればよかった。

面白いですよ。おすすめですよ、とただ書けばよかったのに、すみません。

 

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良き師よき友:松田素二先生の退官記念出版の合評会に連なって

社会人大学院のZoom面談の合間に、社会動態研究所が開催した松田素二先生の退官記念出版『日常的実践の社会人間学』(2021,山代印刷出版部)の合評会を覗かせていただいた。松田先生とは残念ながらご縁がなく、今回はじめてお話をうかがったのである。司会は今活躍中の石岡丈昇先生と打越正行先生。ふと見ると40人近い参会者で私より年長なのは松田先生含め4人くらいか、年はとりたくないものです。

松田先生の『抵抗する都市』(1999,岩波書店)に接したとき、私の浅薄な研究とは全く異なる豊かなフィールドワークの成果ではあるものの、どこかで関わりそうな気がしてうれしかった記憶がある。一方で、私の閉じて凝り固まった思考とは全く異なる、進み広がっていく思考も魅力だった。今日も、とくに後半の討論のなかでそうした先生の魅力を再確認することができた。

松田先生とそのお弟子さんたち、影響を受けた方たちとの関係は、ちょうど私の師匠たちと私の関係より約10年後にズレたかたちになる。そのこともしみじみと感じられた。たとえば伝説化して語られていた鳥越皓之先生は、私にとってはまだ伝説以前の、都賀川の住民運動を調査されていた若々しいイメージのままなのである。さらに神代の昔の中野卓先生は「なかのすぐる」になっていた(「たかし」です!)。この10年のズレはいろいろな意味で大きいのではないか。

でも、一定の緊張感を保ちつつも「〇〇君」とひとしく親しく先生に呼びかけられるお弟子さんたちを、師弟関係をしくじり、「私は東大の初めの頃、弟子育てに失敗した」と師匠に書かれた私はうらやましく、また寂しく思った。

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大学改革の当事者?:授業での応答から

先日日本の大学改革に関する大学院生の研究発表にコメントしたとき、つい自分のことを「当事者」と呼んでしまった。

当事者とは私たちの業界で近年よく用いられる言葉の1つで、私の師匠の表現を借りれば「受苦」の意味を帯びるときにもっとも強い喚起力を発揮する。私たち教員は大学改革によって苦労させられてはいるものの、「大学の自治」と称する経営の一端にあって改革の名のもとに学生や職員に加害していることも疑いないので(たとえば場当たり的に変えまくるカリキュラム)、当事者と言ったのはまったく適切な表現ではなかった。

それでもこの言葉が自然と口を突いたのは、7年前にSGU(スーパーグローバル大学創成支援事業)に関わったことが、私のうつ病の直接の原因の1つだったからだろう。省みれば、あの時父の死が重ならなければあれほど追い詰められることはなかっただろうし(実に不思議なことだが、父の死を思いやって仕事から離れるよう諭してくれる同僚はいなかった)、うつ病になった結果、大学行政には不向きだと自覚できてよかった。それにしてもあの7年前のマツリは一体何だったんだろう。そこで私が担いだ神輿に乗っていたのは・・・。

朝日新聞「語る―人生の贈り物―」欄の田中優子前総長の連載が終わった。はじめは毎朝顔を見せられるのが憂鬱だなと思ったがそれは杞憂で、ほとんどの写真がメディアでしか知らない彼女の若い頃のものだった。また話もほとんど私の知らないことだった。それはそうだ。たった2年間、それまで話をしたこともなかった彼女の学部長職を補佐し、総長選と初期の政策立案に関与したが(その中核(笑、法政だけにネ)がSGU)、それだけである。彼女は私が学生の頃から遠いメディアスターで、今も遠いメディアスターである。そのことを納得すると、連載を読んでも何の感慨も湧かなくなった。

当事者とは、そこに居続けるためではなく、いつかはそこから離れるための概念なのではないか。自分で使ってみてはじめて、この概念の可能性に気づいたのである。

 

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グローバルベーシックインカムへ:岡野内正先生の研究キックオフミーティング

個性的な先達の話をうかがう週末ワクワク企画の掉尾を飾るのは、職場の同僚岡野内正先生の、グローバルベーシックインカム運動研究プロジェクトのキックオフミーティング。

岡野内先生とは私たちの社会学部社会政策科学科グローバル市民社会コースの入門科目を分担する仲である(岡野内先生がA、私がB)。先生は長年ベーシックインカムの研究を深められてきたが、ここで大きな研究会を組織してさらに研究を深めようとされている。私は先生がこの研究を始められた当初は強い懐疑派だったが、誘っていただいたからには先生の(大風呂敷な・・・スミマセン)アイデアの力で自分のチンケな固定観念を破砕していきたいと思った。

岡野内先生には忘れ難い恩がある。今の職場に赴任したとき、私は通常の公募採用ではなく、波乱含みの社会人向け大学院を担当させるための「一本釣り」(押し付け)だった。だから最初の教授会の空気は公募採用の人に比べて冷ややかだった。歓迎会場に向かうバスの車中も沈黙ばかりで、私は前途多難だなと思った。そのとき突如快活な笑顔で声をかけてくださったのが岡野内先生だった。私は何とかやっていけそうだと、ホッとしたのである。

しかしいい思い出ばかりではない。私が学生問題担当だったとき、アクティブすぎる岡野内ゼミは校内にツリーハウスを作りたいと提案してきた。多摩キャンパスは保安林に囲まれているため消防の規制が厳しくて無理だと説得するが、先生は例の快活な笑顔で、消防とも議論していけばいいんじゃない。と。いや、議論の余地はないんですって。

そんな岡野内先生と一緒に勉強させていただくのは、今回が初めてである。先生の壮大で新奇なアイデアにどれだけついて行けるだろうか、すでに参加者のほとんどがついていけてない感じ。そこが何よりワクワクである。

https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-04157-9

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社会学者の身体の数だけ社会学がある:青木秀男先生の「退官講義」を聴く

昨日の徳野貞雄先生と同じくらい「ワンアンドオンリー」の都市社会学者、青木秀男先生の研究歴回顧をオンラインで聴く。こうした僥倖の連続はながくこの仕事をしていてもそうはこない。今78歳の青木先生はずっと大学の外で多くの貴重な研究を遂行、主宰されてきた。もし大学の内にいらっしゃっていればいくつもの大学を渡り歩かれて、その度に退官講義、退職記念講義をなさっただろう。でもやはり「退官」講義なんて青木先生に似合わない。でもでも偉大な学者が自らの来し方を省み、行く末を見晴るかす話を聞けるのはありがたいことだ。

今日のお話のなかで先生が力を入れられたことの1つは、先生の後期のテーマである戦争社会学のうちの「兵の精神構造」研究、その理論枠組みとしての丸山眞男である。実は私にとってはこの点がもっとも納得しがたいところで、直接先生にも申し上げた。「兵の精神構造」への自己批判より「イカレタ官僚制」の脱構築こそが戦争社会学の課題ではないか。丸山の枠組みは浮遊するインテリゲンチャの大衆嫌悪以外の何ものでもなく、そこから民主主義社会の展望を導き出すことなどできないのではないか。

今日の先生のお話をうかがっても私は依然納得しないけれども(納得してしまうと私の社会学はなくなってしまいます(笑))、先生の「背後仮説」は少し理解することができ多様に思う。あと4回シリーズ(の先生の精力)に付いていけるか不安だが、まずは次回を楽しみにしたい。

「社会学者の数だけ社会学がある」と揶揄されることがある。とくに世界中で同じアメリカ製の教科書を使っているお隣りさんから。しかしそれは本当は褒め言葉なのだ。徳野先生も青木先生も自らの人生を通して構築された身体のうえに「ワンアンドオンリー」のアートとしての社会学を(格好つけてではなく必然的に、あるいは運命的に)創り上げられてきた。だから後進の私たちは、優れた社会学者の研究歴から、学説だけでなく、その学説を生み出した人間と社会のユニークさをも学ぶことができるのである。だからこう言い直してもいいのではないか。「社会学者の身体の数だけ社会学がある」と。

 

 

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やっぱり徳野貞雄先生はスゴい!:トクノスクールにオンライン参加

田中一彦さんというジャーナリストがJ.エンブリーの古典『須恵村-日本の村-』を新訳されたこと(2021,農文協)をきっかけとしたオンライン・シンポジウムが、農村社会学者徳野貞雄先生の私塾トクノ・スクールで開催されたので、飛び入りで参加させていただいた。田中さんや今須恵村を調査されている松本貴文さんの報告も実に興味深かったが、やはり徳野先生だ。

最初はおもちゃ箱をひっくり返したような感じで始まるのだが、次第に骨太で鳥瞰的なストーリーが語られていき、実にワクワクさせられる。前にも「徳野先生はスゴい!」とこのブログに書いたが、今回も同じ、要はファンなんですね。

1つ事前配付資料に気になる点があったのだが、当日のスライドの最終葉で見事に説明され、もう私は文句なしである。

http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54020157/

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エクセル人生:空想的な研究計画

Twitter上で「研究しない中高年研究者は早く引退しろ!」といった書き込みを見て、その通りだと思いつつも、黒澤明監督『生きる』のナレーションのように「まったく忙しい」とぼやくしかない今日この頃・・・。

忙しい原因の1つが、ときどき教材づくりに使うエクセルである。元来好きでなく嫌々使ううえ、使うパソコンごとにバージョンが違うのでコマンド(今はこんな言い方しない?)を覚えられない。ジタバタしているうちにどんどん時間が過ぎ、休日の午後がつぶれていく。

「何でこんなアホな道具を使わなきゃならんのか!」とぼやいてからふと気がついた。世の中のたくさんのホワイトカラープロレタリアートの同志諸君は、好むと好まざるとにかかわらずこのアホな道具に使われているのだ。いや、上手に使いこなしているのだ。

さらに同志諸君とその家族のさまざまな「個人情報」は、個別にも集合的にもこのアホな道具によって記録され、集計され、利用されているのだ。つまりエクセルこそは、現代社会のプライマリーな「社会的事実」なのだ。これを研究しない手はない。

題して「エクセル人生」。マイクロソフトもかつてのトヨタほど調査のハードルが高くなないだろうし、使用者の苦労談はネット上でいくらでも手に入る。今年はちょっと間に合わないから、来年度科研費「基盤A」(5年間で5000万・・・爆)で申請してみようかな。

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賭け金としての家事:AI万能家事ロボット批判を反省する

先日新聞記事についカッとなってFBに下記のような罵詈雑言を記した。ちょっと経ってもう少し考えた方がよかったかも、と思うようになった。というのは、

女性だろうが男性だろうが、家事にまったく魅力を感じない、したくない自由があってよく、そのうえで誰かに自分の身の回りのことをタダでやらせるのは嫌だとなれば、家事労働者を正当な規則と賃金で(不払い労働でなく)雇うか、新聞記事にあったようなAI万能家事ロボットに頼るかすることになるだろう。そうしたオプションを道徳的に全否定するのは家事に「高過ぎる」価値づけを行っているからで(専業主婦)、それは他人にタダでやらせることによって家事に「低過ぎる」価値づけを行っている連中(オヤジ)と実は同じ地平にいるのではないか、ということだ。自分でやるか他人にやらせるか、どちらにとっても家事は身の回りに広がる「親密圏」についてのイデオロギー闘争の賭け金になっているのである。その闘技場にいる限り、ロボットにやらせて自分も他人も家事なるものすべてから解放されるといった想像力はけっして働かない。ロボットがなければ、あのユダヤ教の超原理主義者たちのように、風呂にも入らず、ヒゲも髪も伸ばし放題といった生活でもいいわけだ。

AI万能家事ロボットを妄想している大学教授サマご自身はたぶんそう考えているのではないだろうが、高度に発達した生産力によって「家事」と「家事」をめぐるイデオロギー闘争から解放された生活とは、実はあの『共産党宣言』の延長線上にある輝ける未来ではないかと、反省した次第である。

追伸:連れ合いにとって私の嫌なところの1つは、家事に固執しすぎることだそうである。自分でやっている時も、これぐらいお前もやれみたいな圧力を感じて不愉快だそうである。「まあ、超自我あるいは抑圧の委譲よねぇ」。そのせいか、私が菓子を焼き続けはじめると、すかさず外で菓子を買ってくる。

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「料理や掃除、洗濯・・・。1台のロボットが家事をすべてやってくれたらいいですね」(朝日新聞6月8日朝刊「リレーおぴにおん」欄)。ツバを吐きかけたくなるような非道い発言。1969年生まれの大学教授、AIロボット研究所長なる男の男女共同参画意識とはかくも低レベルなのか!その上この男、後半は倫理的視点の必要性などとほざいとる。
ただし趣味的に過剰な家事の軽減は必要だし、家事を通して家族や子どもを支配することもやめたほうがいいし、さまざまな障害から家事をしづらい人のための支援の仕組み(それはロボットである必要はない)はあったほうがいい。しかし家事は壊れた原発の残滓を取り出すのとは違う。

この男、お前の家事を誰がやってくれたのか、今やってくれているのか、一度鏡の前でじっと考えるべきだろう。いや俺は全部自分で(嫌々だけど)やっているというのなら、お前の父や兄はどうか考えてみるべきだろう。

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社会学とは難しいものだね:奥井智之『宗教社会学』(2021,東大出版会)を読む

表題は、林恵海が若い同僚である(というか、退官した林を天下りさせて、その下に仕えさせるために福武が先に東京女子大に送り込んだ)わが師蓮見音彦に語った言葉である。蓮見先生は自分が退官間際になって、生涯地味な研究者だった林の言葉をしみじみ噛み締めたそうだ。社会学は難しい。でも、どこが?

奥井智之先生は前にも書いたが大学院時代に先輩後輩の付き合いはなく、たまたま日本社会学会の何かの委員会でご一緒したときに知遇を得た。私は先生の『社会学』(2004,東大出版会)が好きで、1年生向けのゼミを担当するときには何度か教科書で使わせていただいた。その縁でお付き合いが濃くなり、新著『宗教社会学』をご恵贈いただいたのである。

奥井先生のご本の第一の魅力はその文体である。今こうした文章を書ける社会学者はそうはいない。私も書けない。質実というか簡にして要というか、まるで原稿用紙に黒鉛筆でゆっくり書いて赤青鉛筆で削り削りしたような文章である。また話題も文学、歴史、現代事情と幅広く、さらに社会学の古典、巨人が幅広く網羅されている。そしてそれらがどれかに偏ることなく(これも厳しい推敲によることが推測される)配置されるのである。その結果、社会学としか呼びようのない独特の風貌をこの本は備えている。この境地に誰もがたどり着けるわけではないという意味で、社会学とは難しい。

しかし、読み終わって何かこれだ!と感得することがあったかというと、残念ながら私にはなかった。宗教とは〇〇であるとか、社会とは〇〇であるとか、現代とは〇○であるといった、奥井先生ならではの学説、個性、はっきり言えば偏りを読み取れない。この本の良さを知りつつ、私にとっては社会学とはそうした偏り以外の何ものでもないので、これだけの良書を通しても満足できないという意味でも、社会学とは難しい。

ただし、もしこの本に偏りがあるとすれば、それはこのテーマに取り組んだ奥井先生の姿勢そのものであろう。宗教への関心を深めざるを得なかった先生自身のライフヒストリーが、仏教系の進学校出身というだけではなく、そこここに読み取れる。私ならそうした自分の事情の周りを堂々巡りし続けるだろうが、先生は偏りのない学問の世界に開いていこうとされるのである。結局社会学者ひとりひとりの生きざまでしかないという意味でも、やはり社会学とは難しい。

最後にトリビアな話を。奥井先生の『社会学』の前に1年生のゼミで使っていたのは、福武直『日本社会の構造』(1987,東大出版会)と宮島喬編『現代社会学』(1995,有斐閣)だった。3つの教科書における、というか前2著と奥井先生の本の懸隔に、いわゆる「東大社会学」の決定的変容を見てとることができるかもしれない。そのうえ『宗教社会学』の奥付に記された版元代表者、福武直が生み育てた東大出版会の今の理事長は、他でもない吉見俊哉先生なのだ!。

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ハゲオヤジ万歳!:ソ連の陽気なハゲオヤジたち

憂愁のイケメンと3人の陽気なハゲオヤジ。クラシックファンなら知らぬ者のない名盤、ベートーヴェンの三重協奏曲のジャケット。イケメンは言うまでもなく帝王カラヤン。ハゲオヤジたちはソ連の貴重な輸出品、オイストラフ、リヒテル、ロストロポーヴィチである。実はこの中で一番年上なのはカラヤンで、オイストラフは同じ年の後の生まれ。

この間ETVの『クラシック音楽館』で久しぶりにカラヤンとバーンスタインを見て、つくづく20世紀後半はイケメンの時代だったなと思ったのである。これが前半だとフルトヴェングラーもトスカニーニもハゲオヤジ。クライスラーはイケメンだがカザルスはハゲオヤジ。しかしこうしてみると、陽気なハゲオヤジたち、なかなかいいではないか。実際にはリハーサルでオイストラフとリヒテルが大げんかして、お人好しのロストロポーヴィチが一所懸命に取りなして何とか収まったが、その間カラヤンはじっと待っていたそうである。

本当に今回話したいのは、本来カラヤンの代わりに3人の前にいるべきもう1人のソ連ハゲオヤジ、ゲンナジー・ロジェジェストヴェンスキー(ロジェストヴェンスキーのようが言いやすいが)のことである。ソ連時代に珍しくよく日本に来てくれる輸出品で、私も何度かラジオで聴いた記憶があるし、その愛嬌ある指揮ぶりをテレビで見たこともある。シュニトケはじめソ連系の現代音楽の初演者はほとんど彼だったのではないか。私は3人と同世代だと思っていたが、ロストロポーヴィチより若かった。

最近亡くなっていたのを知らなかった。あらためてYou tube で見直すと、その指揮の面白さに引き込まれる。ああ、こういう風に授業をしたいものだな。こうだよって短く指示して、後どうしたかは学生に任せてしまう。奥まった眼窩から常に睨みつけるムラヴィンスキーが隅々まで緊張感を張り巡らすのとは逆の、音楽が自由に踊り広がっていく感じ。その真ん中に陽気なハゲオヤジがいる。

ハゲオヤジ万歳!

https://www.youtube.com/watch?v=nAqECHb3eXw

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