仁義なき戦い 日社編:意味のない記憶だよ

何か暴走してしまって、昔のことが思い出されてならない。

山梨大学(旧)教育学部に就職してすぐ、私の師匠の似田貝香門先生と、知遇を得たばかりの故北川隆吉先生が喧嘩を始めた。吹っ掛けたのは(いつものことだが)北川先生で、ご本人に言わせると「似田貝は増長慢、先輩を大事にせん」、要は「俺を大事にしろ」ということだった。何せ「運動家臭の抜けない似田貝のことを心配した福武さんに頼まれて、塩入(力先生)に頼み込んで山梨大に就職させたのは俺だ」ということらしい。なかなかありそうな話ではある。いずれにせよ、この後の似田貝先生の大勇躍ぶりを思えば、叩けるうちに叩いておきたかった気持ちは分からなくもない。

私は青くなって、新婚ホヤホヤの連れ合いに相談した。岩下志麻似の(ウソ)連れ合いは「直談判しかないでしょ」。私は専修大学の北川先生の研究室を訪ねて「喧嘩をやめてえぇ」と懇願した。すでに臨戦態勢の北川先生は、ひと通り私の話を聞いた上で「もう君だけの問題じゃない」と追い返した。私はトボトボと向ヶ丘遊園駅に向かう夕闇の坂を下りていった。

一方の似田貝先生は、北川の所に行ったことをもって「中筋は裏切った」と判断されたらしい。これも学会政治家としての先生の性格を考えれば当然のことである。巨人たちの間に立つなんて私こそ増長慢だった。こそこそ先生の陣笠をやってればよかったのである。

私は、最初の師匠の蓮見音彦先生にも泣きついたが、蓮見先生の答えは「君には気の毒だが、僕たちが北川さんに異を唱えることは難しい。ものすごく世話になってきたからね」だった。もう万事休すである。

これに加えて神戸の震災の調査に行く行かないでも揉め、とうとう私は「破門」になってしまった。もちろん永久ではなく、似田貝先生の勝利が確実になった頃、先生から「破門」を解くと呼び出され、ご自宅近くの「ペルティエ」で美味しいケーキをおごってもらって手打ちをした。北川さんと二度と付き合わないという条件で。

私は北川先生に電話して「これこれこういう事情でお別れします」と申し上げた。すでに私の転職のことでも失敗していた北川先生は了とされ、交流は終わった。

手打ちとなったものの、似田貝先生の方も毎日のように研究室に招いて、自分の理論と方法を口伝してくださった関係には二度と戻らなかった。まあでも、どちらも親離れとはそうしたもの。

今の職場に移って何年か経ったある日、職場の宴会にOBとして招かれた北川先生に、田中義久先生と石坂悦男先生が「中筋君って新しい人が来てくれて」と紹介してくださった。北川先生は横を向いて「そんなこと知っとるわい」と小さな声で言われた。それが北川先生とお会いした最後だった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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