独習の社会学者で田辺寿利君:「社会学と人類学」の序にかえて

たぶん若手であろう文化人類学の方が、「みんなの人類学」というツィッターアカウントを開いていて愛読しているのだが、投稿を募集しているので、ついダボハゼ君の悪い癖が出て、手を上げてしまった。と言っても仕事もロクにしていないのに何か書けるのか、このオジサン。もちろんちゃんとしたことは書けないんですけど、ちょっと思いついたことを「社会学と人類学」という題で3回くらい書いてみたいんです。ええっ、そんな不遜な題で。いやほんの思いつきだけ、1つは田辺寿利という人について、2つめはT.パーソンズについて、3つめは大学の制度としての社会学と文化人類学の異同について、です。

https://anthrojp.com/

それでまず小手調べとして、田辺寿利(すけとし)という人について書いてみたい。なぜかというと、私は日本の社会学と文化人類学の歴史にとって、柳田国男の主催した雑誌『民族』の存在がたいへん重要だと思っているのだが、岡正雄(1898生)、有賀喜左衛門(1896生)とならぶ、同人の1人が田辺寿利(1893生)なのである。

私が田辺の名前を知ったのは大学2年の時の折原浩先生のゼミである。たしか折原先生は、「デュルケムの『社会学的方法の規準』、宮島君の新訳ももちろんいいけれど、僕は田辺さんの訳がいいと思う」とおっしゃった。それを覚えていて、山梨大学で社会学史を担当したとき、デュルケムの話をする前に前任者の塩入力先生が買われていた著作集を繙いた。が、あまり身を入れて読まなかった。いま覚えているのは月報の磯村英一の回顧談くらいである。「デュルケムなら田辺さん、と戸田先生に紹介されて指導を仰いだが、デュルケムの話は聞いたことがない」???

その田辺に最近興味を覚えているのは次の2点からである。1つは先便でも書いた学者の戦争協力問題で、田辺は内モンゴル張家口の蒙疆学院の副院長を務めていた。同じ張家口の西北研究所の副所長は石田英一郎である。もう1つは最近柳田国男の『故郷七十年』が講談社学術文庫になったので読み直してみると、本編と拾遺の2箇所で田辺の名前を見出した。どちらも「郷土会」で親しかった牧口常三郎についての項で、北海道の小学校教師つながりで牧口は後継者戸田城聖(人間革命!)以上に田辺を愛していた、と柳田は言うのである。ただし『民族』同人のことには触れていない。

まったく別の面から。東大社会学研究室の50周年記念式典(1953年)の際に撮られた集合写真で、前列中央はもちろん戸田貞三(1887年生)だが、その「右」の座は何と選科入学な上中退した田辺なのだ(左の座は林恵海(1895年生))。田辺いったい何者?

そろそろまじめに学問の話をしなければならない。戦後の日本社会学が著しくウェーバー理解社会学にコンタミされる前の(折原先生、ごめんなさい)社会学はコント、デュルケムの線であり、そうであれば文化人類学との距離はずっと近かったはずだ。もし今田辺が忘れられているのならば、なぜ忘れられたのか、問わなければならないと思う。

ここからはトリビアな補足。田辺は戦後有賀と同じく大学制度に参入し、東洋大学、東北大学、東京水産大学、金沢大学で教えた。ここで気になるのが東京水産大学(現東京海洋大学)である。何で?。何の確証もないが、漁村をフィールドとした渋澤敬三つながりかな。一方、東北大学教育学部教育社会学講座(まだ教育学部が教育社会学者を再生産できるようになる前)はどうだったんだろう。ああ、創価大にいらっしゃった佐々木交賢先生に聞いておけばよかった。でも私は佐々木先生と斉藤吉雄先生をよく間違えて叱られてばかりだったので、無理だったかな。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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