事実と物語のあいだその2:羽豆崎城で妄想する

信長にとって熱田神宮の守護者という地位はどれほど意味があったのか。津島天王社の地廻りヤクザでは駄目なのか。

津島天王社は今は陸地の真ん中だが、中世はまるでベルギーのブルッヘのように木曽三川水運の重要港湾で、だから「津」島なのであり、渡来神の牛頭天王(祇園さんあるいはスサノオ)を祀っていたのである。上流には清洲があり小牧もあり岐阜もある。その津島の近くに父信秀は勝幡城を築いていた。信長はそこで生まれたという説もある。さらに織田氏は越前の神官の出だった。

もう1つ忘れてはならないのは大垣(美濃赤坂あるいは西隣の青墓)だ。『奥の細道』の終点大垣は江戸以降は陸の城下町だが元々は水運の町で、中山道から東海道へ揖斐川を舟で下る。かつてそこを下ったのは平治の乱に敗れた源義朝。その妻は(ここで話はつながる)熱田神宮大宮司千秋家(正しくは千秋家の祖である藤原季範)の女由良御前で、神宮の庇護を頼って下ったのである。しかし義朝は、さらに知多半島を舟で下り、途中の野間大坊で暗殺されてしまう。

この話ちょっと似ているな。熱田神宮の大宮司の祖は建稲種命、その妹は日本武尊の妻宮津媛。2人に子供はできなかったが、義朝と由良御前の間には(熱田で)「武家の棟梁」頼朝が生まれた。

こうした信仰と伝説が若い信長の野心を彩っていたのではないか。それも、ただのロマンではなくて経済に裏付けられた軍事力、宗教に裏付けられた政治的正統性として。ただし、信長は琵琶湖の内陸水運どまりで、世界に開かれた海運となれば大坂城の秀吉を待たねばならない。その秀吉も晩年は内陸水運と宗教の町伏見で過ごしたわけだから、このセットは安土桃山時代の通奏低音と言えるのではないか。

なんて、素人の妄想を広げるだけ広げて、うららかな春の伊勢湾を後にしたのだった。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の「新しい学問」, 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください