中筋直哉のォ(香川照之風に)「ことばの臨床社会学」6

ちょっと前に政治家が「教諭」を「キョウロン」と詠んで万座の失笑を買った。私も笑ったひとり。でも、なぜ教「師」でなく教「諭」なのか考えもしない、私の方がよほど馬鹿。

戦前(もう「旧体制」と言ったほうがいいかも)の尋常小学校は「訓導」だった(大石先生~)。訓練と指導。対する教諭、教はいいとして諭は?。諭旨免職の諭。やはり「監」に通じる上から目線が。

フロイトに言わせれば政治家の発言は失錯行為。本当は諭してほしいのではなく、論じてほしい。立派な民主主義的発言。でも、生徒と論じられる先生って今の学校にいる?
一方我らは教「授」。ただ教えを授けるだけ。学生を処分したりしちゃいけないよ。研究ばっかりしちゃいけないよ。すべては学生のために。あ~あ、やんなっちゃった。

全部平たく「先生」でいいと思う。ところが全共闘世代のジイサンどもはこれが気に入らん。昨夜も高橋源一郎が富永京子先生に「俺を先生って呼ぶな」。さっき小野アナは先生って呼んでたじゃん。うちでも付属校の教員がそう教えるらしく、1年生で「さん」呼ばわりするヤツがいる。お前に親しくされる筋合いはないっ!

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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