加賀大乗寺の庫裡の整いと美しさ:板橋興宗氏の訃報を見て

朝日新聞9日朝刊の消息欄に板橋興宗氏の訃報。享年93。曹洞宗管長を二度も務めた大阿闍梨である。私はこの人に一度だけ会ったことがある。

1988年の春、私の母方の祖母は自分の郷土に別れを告げたいと言い出し、叔母と私をお伴にして石川県を旅した。祖母の実家は金沢近郊の野々市村の大地主だったが、祖母の父の代に没落し(農村社会学の教科書的展開)、祖母は家を出ていた兄を頼って上京し、護国寺前の洋裁学校の教師という職を手に入れたものの、結局サラリーマンである祖父の妻となって阪神間に落ち着いた。その後も夫の会社が戦後の労働争議で潰れるなど(労働運動史の教科書的展開)不沈多い人生を歩んだ後、夫の死後にようやく自分の人生を振り返る余裕ができたのである。

祖母の父すなわち私の曾祖父舘八平(号は残翁)は、破産後の余生を在野の郷土史家として過ごした。その最初の仕事は地元の古刹大乗寺の史料整理で、『加賀大乗寺史』という私家本にまとめ、死後に出版もされたので戦国史の専門家は知っているかもしれない。そのことを記念して、今も大乗寺の山門横には曾祖父の歌「吾が魂は躑躅と咲かむ金獅峯」を刻んだ小さな碑が残っている。そうした経緯があって祖母は大乗寺も訪れたのだが、当時の住職が板橋興宗氏だった。

応接室で小一時間ほど歓談した。お伴の私に気づいた板橋氏は「君は大学生かね」と尋ねた。私が自己紹介すると「私も文学部出だ。東北大学だがね。堀一郎という先生に習ったのだが知っているかね」。私は偶然勉強して知っていたので「知っています」と答えた。多忙の合間でやや不機嫌だった板橋氏の機嫌が少し良くなったように見えた。堀一郎は古野清人とならぶ学問としての宗教学の巨人、柳田国男の女婿である。

歓談の中身は覚えていない。ただ、応接室に向かう途中の庫裡の整いと美しさは今でも忘れられない。いい典座さんが旨いものを毎日たくさん作っていたに違いない。そんな空気が張り詰めていた。そんな旨いものを食べていたので板橋氏も長命だったにちがいない。叔母は「あの人ツヤツヤし過ぎやわ」と後で悪口を言っていた。いずれにせよ、合掌。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

加賀大乗寺の庫裡の整いと美しさ:板橋興宗氏の訃報を見て への1件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    こんなページを見つけた。関心を持ってくださる方がいらっしゃるのは、子孫の1人としてまことにうれしい。

    https://kanazawasaka.com/column/daijyojizaka.html

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