シンタロー狩り:知識社会学の1つのテーマ

嘱託殺人事件をめぐる発言で、またも大方の顰蹙を買っているシンタロー。しかしその直前に「新刊小説」の書評が朝日書評欄(7月25日)に出ていて、私はひどく気になっている。たぶん評者の石川賢治東大教授が上手で、『死者との対話』という題からおのずと想起される、かつてのライバル三島由紀夫との対比への想像力を搔き立ててくれたからだ。

https://book.asahi.com/article/13574674

この日取り上げられた社会学に関係する本の数々、大村英昭先生の遺作(『新自殺論』、でも本田由紀東大教授はその点に全く言及しない。死者と対話しない)とか、「ウェかヴェか、そんなことどうでもええやん」のウェーバー評伝の新書2冊とか以上に私がシンタローの新刊に惹かれるのは、喜寿を迎えた老残の作家が創作意欲を枯渇させておらず、というかしつこく作家であり続けていることへの呆れ半分の敬意なのである。なぜシンタローは作家であり続けなければならないのだろうか。

シンタローが『太陽の季節』と『狂った果実』で日活アクション映画の原作者として世に出た時、彼の文学的造形を具象化したのは弟のユージローだった、しかしその後ユージローはアクション映画よりも、石坂洋次郎原作、田坂具隆監督の文芸映画で魅力を開花させる。それこそ日活アクション映画の深層の意味構造であることを鋭く指摘したのは、詩人の渡辺武信だった(『日活アクションの華麗な世界』全3巻、未來社、2004年に合本あり」)。渡辺の言葉を使えば、その世界は登場人物が会話と議論によって合意と対立を生産し続ける「言語のユートピア」であり、戦後民主主義の1つの象徴なのだった。さらに「言語のユートピア」はアクションの世界にも浸透していく。ヒーローもヒロインも悪役も皆アクション以上にしゃべりまくる。その頂点に、あの「エースのジョー」が輝いていた。「むしろ文学的と言ってもらいたい」

しかし、である。戦後民主主義に夢を見たヨージロー(ユージローとともに)ではないシンタローは、「言語のユートピア」に倦んで去った三島由紀夫とも異なり、今も作家として書き続けている。それは何を意味しているのか。彼の卑小さの皮をすべて剝いた後に何が残るのか。少し時間をかけて考えてみたい。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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