リアリティ・トランジット私論:成瀬巳喜男監督『放浪記』に寄せて

学部の科目「地域社会学」改メ「グローバル社会のローカリティ」第10回は「リアリティ・トランジットとアート」というテーマで、吉見俊哉先生のリアリティ・トランジットというキーワードを導きの糸に、さまざまな移動空間を生きることのリアリティとそこに育まれる文化や思想の可能性を考えることにしているが、今日話している時(といっても授業用掲示板への書き込みだが)、ふと成瀬巳喜男監督の『放浪記』(1962年,東宝)のラストシーンを思い出して胸が熱くなった。

ずいぶん昔に見たのでうろ覚えだが、売れっ子になり、マスコミの応対に疲れた高峰秀子演じる主人公芙美子が、こたつでうたたねする(その眠りには近づく死が暗示される)。その肩に小林桂樹の夫がどてらを掛けてやる。映像は芙美子の夢の中に切り替わり、海端の遠く続く街道をゆく行商人の義父織田政雄と母田中絹代を幼い芙美子が追っていく。そこにあの「花の命は」のテロップが重ね焼きされてエンドマーク、だったと思う。

保養地での一族のピクニックに招かれるベルイマン『野いちご』とも、土手で虹色の雲と戯れる黒澤明『まあだだよ』ともちがう、厳しくも寂しいリアリティ・トランジット。しかし今の私には成瀬の描く映像こそ好ましい。

『放浪記』は成瀬の映画としては『浮雲』や『めし』ほど取り上げられないが、いい映画ですよ。警察に捕まって「オイチニの薬屋」の歌をむりやり唱わされる織田政雄、芙美子を捨てたつもりが捨てられて死んでしまう運命を受け容れる宝田明、そして木賃宿で出合い、限りなく地味で優しく接する小林桂樹、男たちのどの役柄も強く印象に残っている。

昔読んだ室生犀星の芙美子への追悼文のなかに、この映画を東宝の試写室で見て、若い日の芙美子のことをしみじみ思い出すくだりがあったことを、これもうろ覚えに覚えている。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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