様々なる意匠:書架の片隅から昔の本を

新学期が始まって1年間放ったらかしだった研究室の書架を眺めてみる。前から再読したく思っていた本が目にとまる。『小林秀雄初期文芸論集』(1980,岩波文庫)、もちろん中学生が買うわけもなく、大学院生時代に買った1993年の12刷だ。専攻する都市論でしばしば引用される「故郷を失った文学」(1933)をていねいに読むために買ったのだと思う。

高校の国語で小林秀雄の精読という授業があった。東京高師出の嫌味な先生で、小林への信仰告白を強要するような内容だったので不貞腐れていたら、1時間ひとりで発表する羽目になってしまった。色々考えた挙げ句「この人は本当は何も言いたいことがないに違いない」という結論を話してしまった。当然先生は怒って、いっそうねちねちと非難した。彼は「お前は不勉強な上に高慢だ」と言ったが、これはまったく当たっていた。それ一本でここまでやってきたのである。

小林を再読しようと思ったのは、近頃幾度も「様々なる意匠」という言葉が思い出されるからだ。27歳の小林は意匠を超える営みとして近代文学を積極的に評価し、そこを自分の批評の原点としているのだが、55歳になる私の方は退嬰的で、まああれもこれも「様々なる意匠」に過ぎないな、と思考を途中で投げ出す言いわけにしているだけである。

相変わらず文体は好きになれないし、「様々なる意匠」も「故郷を失った文学」も半分くらいしか分からないのだが、小林が近代文学を通して求めていたことは何となく分かるようになってきた。小林なら社会という言葉こそもっとも粗悪な意匠だと言うだろうが、私は社会と名指されるものこそ意匠に回収できない何かだと言いたい。その意味では、もし私が考えていることにまだ意味があるなら、私の考えすなわち社会学は小林のいう近代文学とほぼ同じだと言っていいだろう。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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