彼岸に向かわれる先生へのムマの鼻向け:高校時代の恩師の訃報

久しぶりの長い上京仕事を終えて帰宅すると1枚の葉書が、高校時代の国語の先生の訃報だった。ずっと年賀状のやりとりがあったのでご遺族が知らせてくださったのだ。合掌。

私の母校灘中高では(今はどうか知らないが)中高の6年間主要教科の担任は持ち上がりなのだが、色々事情があって先生は高校2年から私たちの担任となった。その事情のせいではじめは先生も私たちもある種のよそよそしさがあったと思う。

第1回の授業で、先生はいきなり柿本人麻呂の長歌「玉だすき畝傍の山の」を暗記、朗唱するように指示された。その時はっきりそう思ったわけではないが、確かに私はそれを私たち(少なくとも私)への挑戦と受け取ったのだ。朗々と寸分たがわずに唱してやろう。その時先生は、私に研究という行為のキホンのキを一瞬で叩き込んでくださったのだ。

先生の授業は完全な作家作品研究主義で、次々と作家や作品のプリントを配って解説していった。それを通して私は萩原朔太郎と室生犀星の友情と蹉跌、とくに「ふるさとは遠きにありて」への朔太郎の「誤読」から始まる論争を知った。私の博士論文が萩原朔太郎論で始まるのは、先生のおかげである。

先生は京都大学文学部出身で、研究者を志したが果たせず高校の教師になったと明言されていた。生まれつきの手の障害も原因の1つだったのだろう。しかし先生はその手を1つのキャラクターにまで昇華されていた。私たちはその小さな玉のような手を見ないようにするのではなく、その手が教科書やプリントを巧みに支えるのをまるで手品のように見ていた。

いつだったか、先生は鈴蘭台(六甲山の北側の新興住宅地)からの通勤路で見る山のコブシの花の美しさを「辛夷」という漢字とともに熱く語られた。これまでもこれからも、春コブシの花を見る度に先生の奥床しいお人柄を思い出すだろう。

柿本人麻呂の次か次の次かは『伊勢物語』、「馬の餞」という言葉が文字通り馬の鼻を向けるという意味であり、昔は馬を「ムマ」と読んだという話を熱心になさったので、私たちは先生イコール「ムマの鼻向け」と思っている。だからこの訃報を聞いた同窓生たちは皆「ムマ」あるいは「ムマの鼻向け」という言葉を思い出したにちがいない。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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