何とも言えない変な思い出:木下順二をめぐって

24日朝日書評欄に、保阪正康による山本武利『検閲官』(新潮新書)の書評が載っていて、『夕鶴』の木下順二がGHQ検閲官として働いていたという山本の推測に触れている。私は『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版局)以来山本を尊敬しているので、その推測は正しいのだろうと思う。それに関わって昔の何とも言えない変な思い出が蘇ってきた。

駆け出しの頃、成りゆきから北川隆吉先生のカバン持ちのような仕事をしていた。当時北川先生は退職間際の超新星爆発のような仕事ぶりで、次から次へと空想的な企画を打ち出しては周りの人をたくさん振り回していた。いわゆる進歩的知識人と連続「対話」を行って雑誌に連載するというのも1つで(『戦後民主主義「知」の自画像』)、本人は「最後に落とすのは丸山眞男」と張り切っていた。私も連れ合い込みで(北川先生は連れ合いによくしてくださった)巻き込まれ、磯村英一訪問の際は2人でお伴をしたし、また私は小倉武一、連れ合いは中村哲訪問のお伴をした。いい指導でしょう。私には福武直を、連れ合いには柳田国男をもっと勉強させたいというのである。

しかしどの企画も最初はいいがすぐに企画倒れになってしまう。本人も鬱滞してしまうのである。そんなある日、北川先生が勢い込んで新婚宅に電話してきた。北川先生はきっかり8時、ちなみに宮島喬先生はきっかり9時、そこがお二人の違いである。「スゴいだろう。木下順二に会わせてやるぞ」確かにそれはスゴい、私たちも興奮した。「さすが昔の左翼は人脈の大きさが違うわね~」。ちなみに見田門下の連れ合いは、木下その人より演出の竹内敏晴(『言葉が劈かれるとき』ちくま文庫)の方が近しい。

ところが、である。次に先生から来た指示がオカしかった。本人には直接連絡が取れない。間に入ってもらう人がいる。その人に依頼状を届けてほしい。千駄ヶ谷のある家のポストに書類を手差しで入れてほしい。冷たい雨のふるある日、私たちは古い民家を探し当て、ポストに書類を差し込んだ。「まるでプロレタリアート文学だね」と、冷えた身体を駅前の紅茶店(たぶんルピシアとして有名になる前のレピシエ)で温めながら、私たちは語り合った。それっきりである。だいぶ経ってから北川先生から木下に断られたと寂しそうな顔で伝えられた。

でも若い私たちには、『夕鶴』や『子午線の祀り』の木下にそうした裏面があることを知っただけで勉強だった。そのことを保坂の記事で思い出したのである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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