カラヤンの悲愴:性に目覚める頃の思い出

NHKETVの「クラシック音楽館」で70年代のカラヤンとベルリンフィルのチャイコフスキー『悲愴』のビデオのリマスターを放映している。聴いていると昔のことが思い出されてくる。

小学校4年生の時、亡父の友人のレコードマニアの家に招かれ、最初にかけてもらったのがEMIのウィーンフィル版の『悲愴』だった。まだクラシック音楽の聴き始めで、どれが何の曲で誰がどんな指揮者かほとんど知らなかった。教育テレビで視聴したカール・ベームの来日公演の『田園』がよかったな、くらいなものだった。

目の前のテレビではずっと目を瞑ったカラヤンが、泥を捏ねるようにバトンを回し、所々で異常な盛り上がりを創り出している。そうだそうだ、子どもの私はこの音に囚われて、その夜一睡もできなかった。魅せられてではなく、怖くて寝られなくなってしまったのだ。それは悲愴ではなく恐怖だった。何が?分からないままこの曲を聴くことを封印してしまった。封印を解いたのは高校3年生、自分で買ったグラモフォンのムラヴィンスキーとレニングラードフィル盤。それは厳しくも美しい音楽だったが、どこも怖くなかった。なぜ?

老いの坂のとば口に立った今聴いてみると、その恐怖は「性に目覚める頃」のゆえのものだったことが分かる。身体の内側から吹き出してくる性欲におびえ、それをさらに引き出すような音楽に困惑したのだ。それはけっして異性を慈しみ、子や孫を育むような健全なものではなかった。今も?いずれにせよもう取り返しはつかない。今はただ老いの坂を転がり落ちていくばかりである。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 私の心情と論理, 見聞録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください