忘れることのない備忘録:わが家の戦争の記憶

忘れることはないけれど、改めて記そうとすると不正確な部分が多い。祖父母も父も死んだ今となっては確かめるすべがない(歴史学者のようにやればできるが)。いつか深掘りするための備忘録として。

学童疎開が始まった44年夏、国民学校2年の父は婿養子である祖父の実家に縁故疎開することになった。いつもの夏休みのように丹波今田の休場ムラを訪れた父は、叔父(祖父の次兄)に誘われて近くの山に登った。山頂からムラを見下ろすと駅に向かう道を父母が帰っていく。あっと思ったとたん叔父がぎゅっと抱きしめそうだ。

神戸の空襲が迫ってきたので、曾祖父は青物卸の商売をたたみ、自分の故郷である丹波日置の曽地口ムラに一家で疎開することを決めた、国民学校訓導である祖父は家屋を守るためもあって神戸に残された。ここから話の前後が不正確なのだが、父はまだ休場ムラにいて、ある日(45年3月17日)ムラの南の空が真っ赤に燃えるのをムラびと総出で見たという。次の日祖父の長兄と次兄は、「龍さん(彼らの末弟である祖父)の骨を拾おう」と歩いて神戸に向かった。幸い祖父は生きていた。ややホラ気味の祖父の話では、焼夷弾は放物線を描いて落ちてくるので、投下開始ポイントである海岸線の近くの町にはほとんど落ちなかったという。そのうえ、空襲が始まると祖父はその海岸線にいち早く逃げた。「先生、意気地がないな」と後々まで町の人に笑われたで、と祖父は笑っていた。

空襲の後、曾祖父は家付き娘である祖母と相談し、祖父に神戸市の教員を辞職し、兵庫県の教員に転職するよう命じた。「小糠三合」の祖父は抗わず、曽地口ムラのさらに山奥の小学校の教頭(たぶん教員が2、3人の)に転任した。「龍さんに悪いことした。あれがなければ教育委員になれたのに」と祖父の死後祖母は詫びていた。

敗戦後この疎開を撤収するのに3年近くかかり(祖父は神戸市の教員に復職した)、父は小学校を卒業する年になっていた。祖母に命じられて受験した「灘中」の面接で、教員から「何や、百姓みたいな手しとるな」と笑われてひどく傷ついた。みたいなではない、4年間百姓をやっていたのだ。結果は不合格。そんなひどい学校に息子を入れることなかったのに。

子どもの頃山奥の小さな温泉宿に家族で訪れたことがあったが、そこの主人は祖父の教え子だったそうだ。後川と書いて「しつかわ」と読む、篠山から大阪に向かう山道の途中の温泉(温泉名は籠坊温泉)である。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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