ムラに帰った社会学徒:渡邉萬壽太郎の跡を訪ねて

話を知ってから30年、ついに念願の地を訪れることができた。新潟県関川村の国重文「渡邉邸」。バスタ新宿から新潟行き夜行バスとJRを乗り継いで着いたそこは、冬の雪の前の冷たい雨と風のなかに建っていた。

この家のかつての主、第11代渡邉三左エ門の萬壽太郎は東大社会学科の卒業生で、ながく同研究室の副手を務めて戸田貞三の分家慣行調査を支えたが、戦後はムラに帰って村長となった。だから日本社会学史にはほとんどその名を留めていない。私は、(たぶん北川隆吉先生から)福武が学生を連れて渡邉邸を訪れたとき、渡邉がムラびとを集めて話を聞かせようとした。土間に並んだムラびとたちに渡邉は「東京から大学の先生がいらしたから、お前たちの暮らしぶりをありていに申せ」と命じ、福武たちは(ネガティヴな意味で)ビビりまくった、と言う話を伝え聞いている。この挿話1つでも戦後の日本社会学から渡邉が落伍していたことが知れる。私も長くそう思っていた。

しかし、そうではないのだ。清流だが暴れ川でもある荒川が平野に出る地点に立地した下関ムラは地味は豊かではあるがまことに小さい。そこを300年にわたって治め、周囲の大名とくに米沢上杉家と密接な関係を築いてきた豪農の跡取りとして、彼は敗戦と農地改革の後もこのムラを背負って生きていこうと決意したのだ。ムラを捨てて大学教授になった「第9代」有賀喜左衛門とも、小学校訓導の息子の福武直とも違う人生を選んだのだ。

私はレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』に記した仮説を思い出す。未開社会の先住民とは文明に取り残されたのではなく文明から自然に帰った人々なのだ、と。渡邉もムラに帰ったのだ。

ただ、団体客で賑わっている巨大な母屋にいて、誇らしげに案内するムラの保存会の人びとを見ていると、渡邉の思いから始まっているとはいえ、すでにそこから遠く離れているとも思われるのである。それはムラの宝というより国の宝なのだ。

五百坪の渡邉邸の前が同じくらいの大きさの村役場、後ろが同じくらいの大きさの博物館。さらに後ろには国道沿いの道の駅と日帰り温泉施設。1967年の荒川の大氾濫を乗り越えて、ムラは力強く生き延びている。有賀と福武の農村社会学が描いた未来と異なるムラの姿がここにはある。

二度訪れることは多分ないだろう。が、もう一度ゆっくり話を聞いて回りたいという未練を抱いて、米坂線米沢行きの車中の客となった。

 

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
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ムラに帰った社会学徒:渡邉萬壽太郎の跡を訪ねて への2件のフィードバック

  1. 中筋 直哉 のコメント:

    隣に建つ東桂苑は明治末期に建てられた新宅(古い分家ではなく新しい分家、武家で言えば部屋住み、徳川で言えば三卿)で、これまた豪壮ではあるが本家のイッケンマエ(田の字造り)ではない。この家の2代目(満壽太郎のいとこ?)は東京帝大を出て内務省の官僚になり、子孫は武蔵野市に住んでいるという。また近代日本民法学の創設者の1人三瀦(みずま)信三も、渡邉家よりも古く中世のこの地を治めた土豪の子孫という。そうしたことも記しておいた方がいいと思う。

  2. 中筋 直哉 のコメント:

    一夜漬け勉強のせいか社会学の限界か、喜多野清一が「商人請負地主」と記した渡邉家、ホームページにも武士の隠居分家とされている渡邉家を、中世史家の井上鋭一は「川の民の支配者」と推定している、と今日知った(井上鋭一,1981,『山の民・川の民』平凡社.(初出は1966))。宮崎駿の『もののけ姫』のエボシ御前みたいな。

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