白新線の電車は満々と水を湛えた阿賀野川鉄橋を越えると小さな駅に停まった。夜行バス明けでウトウトしていた目に「雪の宿」の看板が映った。ああ、ここが本社なのか…。帰ってからスーパーで買ってみて驚いた。本社はその通りだが工場は「村上市長政」。そこは有賀喜左衛門と論争した喜多野清一が戸田貞三の分家慣行調査で訪れた土地である。成果は喜多野が病を得たために、戦後の日本社会学の再建を告げる『社会学研究』(戦前の『社会学雑誌』と現在の『社会学評論』の中継ぎ)創刊号に有賀や福武と並んで掲載された。
この長政、車窓からはだだっ広い水田しか見えない。しかし失敗し荒廃した新田に用水を引き美田に変えたのは、先便で触れた化政期の渡邉三左エ門だったのであり、論文の資料は多分子孫の萬壽太郎が提供したのだ。
だから喜多野は、この美田を耕す小作人たちが農地改革ではなく皇国農村創設運動に賛同した萬壽太郎によって解放されたことを論文の最後に明記しているのである。
古島敏雄・守田志郎『日本地主制度史論』(1957,東大出版会)によれば、明治期の渡邉家は新潟千町歩地主のなかで地価総額では13位だが山林面積で2位、総面積で2位である。両方とも1位は月岡天王村の市島徳次郎、横越沢海村の伊藤文吉は畑地1位で総面積3位である。