与瀬グループと大塚史学の転換点:中央東線相模湖駅にて

「与瀬グループ、そんなものはなかったんです」丸山眞男に問われた大塚久雄はそう答えた。丸山によれば、与瀬グループとは戦争中に神奈川県与瀬村に疎開した大塚、川島武宜(民法学)、飯塚浩二(地理学)の3人の研究交流のことだ。大塚も否定はするが、ときどき集まって日本の行く末を語り合ったことじたいは認めている。それをグループと呼ぶのは、少し若くて兵隊に取られて苦労した丸山の嫉妬からかもしれない。与瀬での暮らしについては確か川島も書いていたし、飯塚も大塚の著作集の月報に書いている。

与瀬、今の相模原市相模湖町はまだ相模湖ができておらず、甲州街道の宿場町で中央本線も通っていたとはいえ、純粋な山村だったはずだ。3人の「近代化」論者がそこで暮らしながら何を語り合ったのか、確かに興味深いことではある。
それ以上に、戦争は大塚の学問と信仰にとって大きな転換点だった。学問については古くは服部之総が、最近では中野敏雄先生がつとに指摘したことだが、私は信仰の方に興味を覚える。高校時代にラグビーで(!)痛めた膝を悪化させた大塚は、福音書の教え「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ」に従って切断した。しかしその身体での遠距離通勤は辛かったようで、あるとき(おそらく空襲で)列車(中央線は電化済みで電気機関車牽引の客車列車)が不通となり、歩いて与瀬まで帰った。途中どうにも歩けなくなり倒れ伏してしまった。すると見知らぬムラびとが助け起こして家まで送ってくれた。後で礼を言おうと探したが、そのムラびとは見つからなかったという。福音書の「善きサマリアびと」そのままの話。

そんな昔の読書を確かめたくて、早朝の旧与瀬、現相模湖駅に降り立ったのである。

中筋 直哉 について

法政大学社会学部教授。1966年神戸市生まれ。
カテゴリー: 尊敬する先輩たち, 東京漂流, 私の「新しい学問」, 見聞録 パーマリンク

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